2009年06月20日

光学異性体(こうがくいせいたい)

光学異性体(こうがくいせいたい)とは主に有機化学で用いられる用語。"optical isomer" の訳語で立体異性体の種類を表す言葉だが、IUPACでは推奨されておらず、代わりに「エナンチオマー」や「ジアステレオマー」を使うことが推奨されている[1]。関連する光学的な現象の詳細については、「キラリティー」および「旋光」(光学活性)の項を参照されたい。

生化学や天然物化学、また薬学では、有機化合物の光学異性体の区別が重要になる。生体を構成する物質に異性体が多かったり、異性体の違いにより生理活性が異なるためである。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

歴史的には最初、互いに大きさが等しく正負が逆の「旋光性」(光学活性)を示す一対の化合物を互いに「光学異性体」と定義した。そして旋光性の原因が分子のキラリティーによることが判明すると、「鏡像異性体」、「対掌体」、または「エナンチオマー」の同義語として使われるようになった[2]。厳密に言えば「光学異性体」は光学活性という観測可能な物性に由来する用語であり、構造に由来する用語である「エナンチオマー」とは別の定義なのだが、実際上はほとんど区別せずに使われてきた。また不斉炭素原子を複数持つ分子の異性体である「ジアステレオマー」の概念が登場すると、エナンチオマーとジアステレオマーとを合わせて「光学異性体」とする使い方もなされるようになった[3][4]。だが今でも「光学異性体」を「エナンチオマー」の同義語として使っているテキストの方が多い。日本の高校の化学では未だに「光学異性体」という用語を使っているが、高校課程ではジアステレオマーがまだ扱われないため、このような曖昧性はあまり問題にはならないようである。

光学異性 (optical isomerism) という言葉は結晶構造に由来する旋光性に関して使われることもある[3]。これは結晶格子の配置に由来する旋光性であり、特に「左右像 (enantiomorph)」と表される。

命名法 [編集]
IUPAC命名法では右旋性を(+)で左旋性を(-)で表し、絶対立体配置は不斉中心の4個の置換基の命名上の優先順位によりSまたはRを用いるRS表示法で表す。ただし、旋光性と絶対配置の間に法則性は無いので、両者の関係は独立している。

また、歴史的経緯により、d, l も用いられるが、旋光性ではなく相対立体配置を意味する場合があるので注意が必要である。現在のIUPAC命名法では相対立体配置は D, L で表すのが正しい。

dl および DL、さらに (+)(-) は1分子全体にひとつ付ける名称記号だが、RS は分子内の不斉中心ごとにひとつひとつ付ける記号である。したがって複数の不斉中心を持つ分子では、その数だけ名称中に R または S の記号が添えられることになる。

ちなみに、d, l は dextro-rotatory(右旋性)、levo-rotatory(左旋性)に由来する。dextro、levoはそれぞれギリシャ語の右、左を意味する語から来ている。一方、R、S はラテン語の右、左を意味するRectus、Sinisterに由来する。

2009年06月02日

プロイセン以外では唯一、後装式小銃への

プロイセン以外では唯一、後装式小銃への換装を進めていた英国以外の欧州諸国は、1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争によって、ドライゼ銃の存在によりプロイセンの連合軍が驚異的な戦力に変化している事を知った。

続く1866年の普墺戦争においてドライゼ銃は最大の活躍を見せた。先込め式銃を使っていたオーストリア兵が、立ったままの姿勢で次弾を再装填するまでの間に、プロシア兵は5発(もしくはそれ以上)を地面に伏せたままで発射し、敵をなぎ払ったのである。

この様を現地で見ていた外国軍の観戦武官は「ニードルガンは王者だ」と評し、その様子がフランスへ伝わると、敵兵の死体の山を前にしたニードルガン発明者が喜色の笑みを浮かべている風刺画が描かれた。
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準同盟関係にあったオーストリアがプロイセンに惨敗し、ドライゼ銃の性能を知って愕然としたフランス陸軍は、ドライゼ銃を研究・改良したシャスポー銃を1866年に急遽採用した。

双方が紙製薬莢を使用する小銃で戦った戦争となった1870年の普仏戦争では、ドライゼ銃に対して倍の射程を誇るシャスポー銃や、ミトライェーズ斉発砲など各種の新兵器を装備していたフランス軍が圧倒的な優位に立っているかに見えていたが、フランスより巧みに新技術(鉄道・電信)と組織(参謀本部・諜報部)を活用して周到に戦争準備を進めていたプロイセン軍の前に、自信過剰だったフランス軍はあっけない大敗を喫した。

フランスに勝利したプロイセンはドイツ帝国へ発展し、1871年にドライゼ銃のボルトアクションを継承・発展させ、現代式銃器と同じ金属薬莢を使用するモーゼル1871ライフルを最初の陸軍制式小銃とすると、プロイセンの勃興を支えたドライゼ銃と紙製薬莢は30年に及んだその役割を終えた。

また、ドライゼ銃の紙製薬莢は金属薬莢が主流となるまでの間、最も実用的な一体型薬莢として世界的に普及し、これを使用する回転式拳銃やレバー式の閉鎖機構を付けた娯楽用途の銃[1]などが、模倣品や改造品を含めて多数製造された。

2009年04月30日

檀君神話への傾斜

これほど信奉された箕子朝鮮であったが、民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、中国人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国・北朝鮮ともに太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張。現在の歴史教科書にも記述されている。韓国・北朝鮮の両国において白頭山が特に尊ばれ、その聖地に対して中国が自国の領土として単独での世界遺産登録を目論むことに強く危機感を募らせるのは、このような理由による。
近年、中国社会科学院の中国辺疆史地研究センターを中心に「古朝鮮・高句麗・扶余・渤海は中国の地方政権であり、その歴史は中国史の一部」という“東北工程”の史観が唱えられ、近隣諸国から注目を集めている。もともと住民の大半が非漢民族である中国東北部において、ナショナリズムを高揚させるための国内政治目的と見られるが、「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」とか、また箕子朝鮮については「箕子の存在を殷代の甲骨文字と前秦の記録から確認することができ、(中国人である箕子が)朝鮮半島に最初の地方政権を建てた」と漢人創始を強調するなど、その主張の内容は決して穏やかではない。

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これに対して韓国文化財庁は、「韓民族の歴史が(満州などの)東北地域につながっているという事実とそれを主張する『縁故権』を払拭するために開始されたもの」と大きく反発。さらには、近々崩壊が囁かれる北朝鮮を中国へ吸収するための準備工作と見て警戒する動きもあり、この箕子朝鮮論は単に古代史解明のための論議に留まらない、きな臭い現代国際政治の側面を見せ始めている。

2009年04月15日

ポルトガルでの影響

半島戦争は同時代におけるポルトガルの衝撃的な幕開けを表していた。リオデジャネイロへの宮廷の移転は、その後独立することになるブラジルの国家建設の始まりであった。宮廷、政府、陸軍からなる15,000人以上の人々がポルトガル艦船に乗り亡命できたことは、ブラジルとってはおまけであり、ポルトガルにとっては見せかけの恩恵であった。なぜならば、それは独立へのエネルギーを解放したからである。 不在間の王に指名されたポルトガルの知事には、フランスの侵略とイギリスの占領が続くために、僅かに影響していた。戦争大臣のミゲル・ペレイラ・フォルハスの役割は独特なものであった。ウェリントンは大臣を「イベリア半島でただ一人のまともな政治家」と見ていた。ポルトガル軍の参謀と55,000人の常備軍、50,000人以上の国民防衛隊「ミリシアス」と様々な数の郷土防衛隊「オルデナンサス」を(全体で10万を越えると目される兵力)創設を指揮した。1812年にロシアの宮廷大臣であるシュタイン男爵に送った手紙で、フォルハスは「焦土作戦」の採用が、ナポレオンの侵略を打破し領土守る唯一の方法として薦めた。ロシアのツァーリアレクサンドル1世は、ウェリントンのポルトガル軍戦略を模倣しナポレオンの大陸軍を飢えさせるために戦闘を避けるよう命令した。

フランス帝国との戦争で試練に晒され、訓練され、実戦経験したポルトガル本土残留の新しい階級層は、新生ポルトガル独立を主張する点で、本戦争における旧来の指導者層に多大な影響を与え、フランス革命に並ぶものでもあった。ベレスフォード元帥は1814年以後もポルトガル陸軍(隷下に160人ほどの英軍将校が中核となる)の司令官(国王がまだブラジルにいるので一種の植民地総督)として残留した。彼の元、ポルトガルの新政策が策定された。これはルソ-ブラジル連合王国のあり方、アフリカの植民地における奴隷供給問題、ブラジルの産業、ポルトガルとの交易など今後の国家計画が定まった。しかし、1820年までにこれら全てが維破綻した。ポルトガルの半島戦争に参加した葡軍将校は、イギリス軍人を追放し、8月24日にオポルトで自由主義革命を開始した。ポルトガルにおける自由主義体制の樹立は1832年から34年の内戦終結後に結実されることとなる。

スペインでの影響 [編集]
新国王ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)は当初フランスとの協力関係で近代化と解放が得られると信じていた「アフランセサドス」(親フランス派)のスペイン人に歓迎された。一つの例が異端審問の廃止であった。しかし、聖職者と愛国者は人民を煽動し、実際にフランス軍が抑圧する事件(1808年マドリード)がおきると、侵略者に対して人民を団結させ勇気付けるまでに拡大することになった。スペインに残っていた者は、フランス軍に従ってフランスに脱出した。画家のフランシスコ・デ・ゴヤはこれらアフランセサドスの一人であり、戦争後に、告発されたり可能性として考えられるリンチを受けないようにフランスに亡命しなければならなかった。

独立支持派は伝統派と自由派双方にいた。戦争後、新国王フェルナンド7世(待望の人(後に「彷徨える国王」))が、各地の連合を纏め上げフランスに抵抗すべくカディスで召集した独立議会が行った社会的前進を無効としたために、カルリスタ戦争で激突することになった。絶対君主制を復活させ、自由主義を標榜する者を全員起訴して処刑し、最後の悪行は、愛娘のイサベル2世のために王位継承法を変えたことであり、従って旧法での王位継承者である王の弟ドン・カルロスの支持者との内戦の世紀が始まった。従って、スペイン人が起こした独立戦争は、実際は、外国の占領よりも、専政、飢餓、破滅、死の方を選択し、スペインは百年も後退したのである。しかし近代化に対するスペイン人の渇望は、やがてリエゴ革命等によって現実化されて行くのである。

自由主義議会は1812年3月19日制定の1812年スペイン憲法を可決した。それらは後に、王によって、破棄された。

一方、植民地だったスペイン領アメリカでは、クリオーリョが各地の市参事会にてフェルナンド王に対して忠誠を誓う連合組織を結成した。この自治の経験と、フランシスコ・デ・ミランダらによる独立への動きが元になって後に、自由主義者(リベラトルス)にスペイン領アメリカ植民地の独立を促すことになった。シモン・ボリーバルもその一人である。

フランス軍はカトリック教会の大量の財産を多く略奪した。教会と尼僧院は、馬小屋や兵営に使用され、スペインの文化遺産が深刻な打撃を受けることになる美術品は、フランスに送られた。加えて英葡軍がスペインの都市と農村を略奪した。戦争の影響は、スペインの経済を著しく低下させ、19世紀の停滞をもたらすことになる。

主な戦闘と包囲戦 [編集]
メディナデルリオセコの戦い(1808年7月14日) フランス軍がスペインで初めて大勝利を収めた。イベリア半島に保安隊を創設した。
バイレーンの戦い(1808年7月19日) デュポン将軍が総指揮を取るフランス軍23,000名が、ハエーン地方(アンダルシア)のバイレーンでカスタニョスが指揮する3万のスペイン兵に包囲された。5回出撃を試みて、フランス軍は降伏した。
ロリサの戦い(以前は英語でRoleiaと綴っていた。)(1808年8月17日) ウェルズリーが15000のイギリス軍とモンデゴ湾に上陸し、リスボンに向けて南進した。アンリ・デラボルド指揮のフランス軍は、補給を待ってウェルズリーの進軍を遅らそうとした。第29歩兵連隊による早まった攻撃は、成功しフランス軍撤退の原因になる総攻撃の命令をウェルズリーが下さざるを得なくなる。小競り合いだったが、イギリス軍の半島戦争での最初の戦闘であり、ヘンリー・シュラプネル大佐の球形の弾丸が初めて使われた。
ビメイロの戦い(1808年8月21日) ロリサの戦いの4日後、今度は17,000の英葡連合軍を構成するウェルズリー軍は、ジュノー将軍の部隊に攻撃された。この攻撃はフランス軍が2,000名の死傷者を出して撃退され、ジュノーはトレスベドラス近郊に撤退した。
ソモシエラの戦い(1808年11月30日) ナポレオンのマドリードに向けた戦闘で、ヤン・コジエトゥルスキ指揮のポーランド警備隊の勇敢な突撃で有名
メデリーンの戦い(1809年3月28日) 17,500名のフランス軍が、グレゴリオ・デ・ラ・クエスタ将軍指揮のスペインの大軍を敗走させた(千人につき1万人の死傷者)。
タラベラデラレイナの戦い(1809年7月27日-28日 55,000のウェルズリー英西軍が、マドリードの南西110km(70マイル)の町タラベラデラレイナでジョゼフ・ボナパルト王、ジュルダン元帥、ヴィクトル元帥のフランス軍46,000名と対峙した。実際はウェルズリー軍がクエスタ将軍の寄せ集めのスペイン兵が3,500名いるという不利な状況にもかかわらず、ウェルズリーは勝利を収めた。死傷者はイギリス軍が5,500名、スペイン兵が1,000名、フランス軍が7,200名であった。
オカナの戦い(1809年11月19日) スールト将軍指揮の約29,000名のフランス軍が5万のスペイン正規軍を撃破した。壊滅的な損害を被り、スペイン南部の多くが陥落した。
ブサコの戦い(1810年9月27日 26,000名のポルトガル軍と4,5000名のイギリス軍の連合軍は45,000名のメセーナ軍を破った。死傷者はポルトガルが626名、イギリスが626名(素晴らしい一致)、フランスが約4,500名であった。
トレスベドラス線防衛(1810年冬–1811年) 「ナポレオン衰退期」の1810年10月14日のソブラルの小競り合い以外はクローズウィッツの勝利はなかった。
フエンテスデオノロの戦い 1811年5月3日 – 5日
アルブエラの戦い(1811年5月16日) ウィリアム・ベレスフォード卿指揮の連合軍35000名は、スルト元帥がフランス軍24,000名と包囲を解こうとするのを妨害するためにバダホスから南に移動した。フランスの攻撃は、結局失敗した。全軍が勇敢に戦い、ジョアシム・ブレーク将軍の師団は、フランス軍を撃退し、イギリスの狙撃旅団は「頑強な抵抗者」のように栄光に輝いている。ポルトガルの第11師団第23旅団は、フランス軍との「戦闘の局面を変える」歩兵攻撃を導いた。
バダホスの戦い(1812年4月6日) フィリポン将軍指揮のフランス軍5,000名とのバダホスの頑丈に強化された要塞は、3月16日から3万のウェルズリー英葡軍に包囲されていた。4月6日夜、強襲を繰り返して、防衛線突破に成功し、フランス軍は降伏した。フランスが1500名、英葡連合軍が5,000名を失った。
サラマンカの戦い(アラピレスとも)(1812年7月22日) ポルトガルへの撤退中、ウェルズリーの英葡軍48,000名は、マルモン元帥指揮の5万のフランス軍にサラマンカ近郊で攻撃を受けた。イギリス軍はベルトラン・クローゼル将軍がフランスが有利な状況を保ったまま攻撃に踏み切って1時間未満でほぼ勝利を収めた。ウェリントンとベレスフォードは、ポルトガルの第3師団第15旅団とフランス軍の進路に向かって反撃を指揮した。スペイン軍が退路を断つのに失敗し、フランス全軍を捕らえることはできなかった。それでもフランス軍の損害は死傷者7,000名、捕虜となった者7000名以上であった。
ビトリアの戦い 1813年6月21日

人物 [編集]

スペイン人 [編集]

政治家 [編集]
マヌエル・デ・ゴドイ(1767年 - 1851年)(スペインの堕落した首相) 自分の陰謀と怠慢で1808年に事実上抵抗もなくフランス軍にスペインを支配させてしまった。スペイン王妃マリア・ルイーサの愛人であると言われる。王子フェルナンドすらゴドイとマリア・ルイーサの子であると噂された。
カルロス4世(1748年 - 1819年)(意志薄弱で無能な国王) ゴドイの言いなりで、1808年にナポレオンが退位させた。
フェルナンド7世(1784年 - 1833年)(スペイン皇太子) 1808年に即位したが、すぐにフランス軍により亡命を余儀なくされる。代わりにジョゼフ・ボナパルトが国王になったことで、半島戦争の始まりとなる5月2日の反乱を引き起こした。戦争末期に復位したが、10年間の混乱で19世紀の大半を経済的な混乱と無秩序に近い混沌状態にスペインを陥れた。

将兵 [編集]
ミゲル・デ・アラバ(1770年 - 1843年)(スペインの将軍) 只一人トラファルガーの海戦とワーテルローの戦いに参戦した
ホアキーン・ブラケ・イ・ホイエス(1759年 - 1827年) ナポレオンの第二次侵攻の際のガリシア軍司令官
フランシスコ・ハビエル・カスタニョス(1758年 - 1852年) バイレーンの戦いで勝利したスペインの有名な将軍。戦闘で初めて大陸軍部隊を負かした。
グレゴリオ・ガルシーア・デ・ラ・クエスタ(1741年 - 1811年) イギリス軍と大規模な合同作戦を行ったスペインの中心的な将軍だが、度々大損害を出した。
ペドロ・デ・ラ・ロマナ(1761年 - 1811年)(ガリシア軍の偽司令官) フランスからガリシアとアストゥリアスを解放した。
ホセ・オドネル(1769年 - 1834年)(スペインの将軍) カタルーニャの最高司令官
ホセ・デ・パラフォックス(1776年 - 1847年)(スペインの将軍) アラゴーン軍の艦隊長に選ばれ、1808年と1809年にサラゴサ防衛で叙勲される。
ホセ・デ・サン・マルティーン(1778年 - 1850年)(スペインとアルゼンチンの軍人、師団長) バイレーン、アルブエラ、トレスベドラスで戦う。1810年5月25日にブエノスアイレスで五月革命が勃発したことを聞くと、出身地のアルゼンチンに帰国し、戦後南米の解放者の一人になる。
ホセ・デ・サヤス(1772年 - 1827年) スペインで最も立派な司令官の一人
トマース・デ・スマラカーレギ(1788年 - 1835年)(スペインの将軍) バスク人。後年カルリスタ戦争で勇名を馳せる。

ゲリラの指導者と革命家 [編集]
アウグスティナ・デ・アラゴーンはサラゴサ包囲の際に活躍した女性
ルイース・ダオイース・デ・トレス(1767年 - 1808年)とペドロ・ベラルデ・イ・サンティリャーン(1779年 - 1808年) 1808年5月2日のマドリード暴動を指導した砲兵将校。死後国民的英雄となる。
フアン・マルティーン・ディーエス(1745年 - 1824年) El Empecinado(不屈の人)として知られる立派なゲリラ指導者
フランシスコ・エスポス・イ・ミナ(1781年 - 1836年)(ゲリラ指導者) 恐らくスペインの偉大なゲリラ指導の中で最高の戦略家で、フランスが支配する場所を誰にも咎められずに放浪できたことで有名。時折待ち伏せ攻撃で全フランス連隊を全滅させた。

その他 [編集]
フランシスコ・ゴヤ(1746年 – 1828年)(スペインの画家) 戦争中の虐殺を写実的に描いた。

フランス人 [編集]
ジョゼフ・ボナパルト(1768年 - 1844年) スペイン国王。ナポレオン・ボナパルトの兄。当初ナポリ王(1806年 - 1808年)で、ボルボーン(ブルボン)朝の意向によりスペイン国王(ホセ1世)になった(1808年 - 1813年)。スペインの旧体制改革と近代化を目指すも、独立戦争の現実の前に挫折した。
ジャン=バティスト・ジュールダン(1762年 - 1833年) フランスの元帥
ジャン=アンドシュ・ジュノー(1771年 - 1813年) フランスの将軍で外交官
オーギュスト・マルモン(1774年 - 1852年) フランスの元帥
アンドレ・マッセナ(1758年 - 1817年) フランスの元帥
ジョアシャン・ミュラ(1767年 - 1815年) ナポリ王。フランスの元帥。ナポレオンの義理の兄弟でベルク大公(1806年 - 1808年)に叙された。フランスのスペイン侵略の端緒を導いた。そして、ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン国王になるまでは、その地位を希望した。ジョゼフが国王だったナポリ王国を慰労の褒章として与えられた。
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト(1769年 - 1851年) フランスの元帥。スペインでの半島戦争で指揮権を保持した。ポルトガルに1809年に侵略し、ポルトガル国王への野心を募らせたが、ウェルズリーとシルヴェイラの連合軍によって退けられた。ワーテルローの戦いの参謀長であった。戦争大臣(1830年 - 40年)。

イギリス人 [編集]
アーサー・ウェルズリー(1769年 - 1852年) イングランド系アイルランド軍人で政治家。ウェルズリーは半島戦争の間、同盟軍の指揮で成功おさめ少将から陸軍元帥へと昇進し、後にウェリントンの貴族となり、さらにウェリントン子爵。1814年にはウェリントン公爵家を創設した。
ジョン・ムーア卿(1761年 - 1809年) ラコルニャの戦いで戦死するまで、シントラ協定により英国軍を指揮した少将
ウィリアム・ベレスフォード(1768年 - 1854年) ポルトガル陸軍の元帥に昇進し、有能で訓練された戦闘部隊を纏める任務を与えられたイギリス軍の将軍。ブサコの戦いで勲功爵になった。
ロワルドヒル卿(1772年 - 1842年) ウェルズリーが独自に指揮することを任せた数少ない将校の一人。多くの戦闘で重要な役割を果たして、1812年に中将に昇進した。
ロバート・クラウフード(1764年 - 1812年)はジョン・ムーアの下で旅団長として戦争を始め、少将に昇進して間もなくロドリゴ市を急襲した。
トーマス・ピクトン(1758年 - 1815年) 第3師団を指揮した少将で、ウェルズリーの最も有能な上級将校の一人。1813年に勲功爵になり中将に昇進した。ワーテルローの戦いで戦死した。

ポルトガル人 [編集]
ベルナディム・フレイレ フランス侵略軍に対するポルトガル人の暴動を指揮した将軍。ビメイロでウェリントンを補佐した。1809年3月27日に暴徒に暗殺された。
フランシスコ・ダ・シルベイラ 将軍で、1808年 - 1813年にポルトガル北部で民兵と軍の師団を指揮した。ビトリアとピリネウスの師団長
ミゲル・ペレイラ・フォルハス 将軍で戦争省長官。1806年からポルトガル軍の改革を推し進め、戦争を機能的に行えるよう手助けした。
マヌエル・デ・ブリト・モシノ 1809年以降で最も成功した副官長。5万人ほどで機能的に戦争を遂行できるようにフォルハスとベレスフォードを手助けした。
トマース・ギレルメ・ストゥッブス 半島戦争中に連隊長と旅団長を勤め、自分自身とサラマンカ、ビトリア、ペレネー山脈の第11師団第23旅団の名前を世間に知らしめた。
カルロス・フレデリコ・レコル 1808年にイングランドでレアルレヒアンルシタナを組織。ウェリントン軍第7師団長でイギリス軍で唯一の外国人
ルイース・ド・レゴ・バレト 大佐で、後に准将になり、イベリア半島の主な戦闘で戦い、「勇敢なルイース・レゴ」とウェリントンの特派軍で称えられた。
ジョアン・カルロス・サルダナ 24年間しか生きられなかったにもかかわらず、サルダナ大佐(後の元帥)は1814年にバイヨンヌの包囲を解いた英葡合同師団を暫定的に指揮した。

諜報活動 [編集]
諜報活動は1810年を過ぎるとイギリス軍の戦争遂行に大きな役割を果たした。スペインとポルトガルのゲリラは、フランス軍の密使から通信文を奪取するよう依頼された。1811年からこうした文書類は一部または全文が暗号化されていることがよくあった。ウェリントンの参謀ジョージ・スカヴェルは解読する任務を与えられた。初めは使用する暗号はかなり単純で他の参謀の助けをもらった。だが、 1812年の始めには、更に難しい暗号が、独創的に外交文書用に改訂され、使われるようになると、スカヴェルは解読を進めていくことに夢中になった。解読作業はフランス軍の動きと配置に関する知識が上記の交戦で大きな成果を収める結果と共に徐々に進んでいった。フランス軍は暗号が解読されているとは知らず、ビトリアの戦いでその暗号表が奪われるまで使い続けた。

文学などへの影響 [編集]
プロスペル・メリメの小説「カルメン」 - これを基にした ビゼーのオペラ「カルメン」はこの戦争中の設定である。

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2009年03月31日

羽黒山政司

羽黒山 政司(はぐろやま まさじ、本名:小林 正治(こばやし まさじ)、1914年11月18日 - 1969年10月14日)は、新潟県西蒲原郡松長村大字羽黒(のちの中之口村、現新潟市西蒲区)出身の大相撲第36代横綱。身長179cm、体重130kg。得意手は左四つ、吊り、寄り、上手投げ。

農家の三男に生まれ、上京し伯母の経営する両国の風呂屋の三助をやっている時、先代立浪から連日のようにスカウトを受けた。度重なる攻勢に本人は伯父の経営する風呂屋に逃げ込んだがそこでも立浪の熱心な勧誘は続き、「横綱になれば、もっと親孝行ができるぞ」の言葉に心動きついに入門した。

最初から「羽黒山」の四股名で1934年1月場所初土俵、序ノ口から幕下まですべて優勝し、関取増員の影響もあって各段1場所のハイスピードで、1937年(昭和12年)1月場所、十両に昇進した。現在は、幕下で最低2場所の経験が必要なので、このスピード昇進は今後も破られないと思われる。十両も優勝で1場所で突破、1937年(昭和12年)5月場所に新入幕となった。

1939年(昭和14年)5月場所後には大関昇進、1941年(昭和16年)5月場所で初優勝を果たして横綱に昇進した。
タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

戦前・戦中は同部屋の双葉山の影に隠れた存在だったが、彼の引退後は第一人者として戦後荒廃した相撲界を支えた(当時「これで俺の時代が来た!」という名言を残した)。双葉山引退の場所である1945年(昭和20年)11月場所から、足掛け3年にわたり4連覇・32連勝を記録した。しかしそのさなかに先代立浪の娘だった妻と長男を相次いで亡くす不幸に見舞われた(のちに再婚し子ももうけた)。さらに1948年(昭和23年)4月の巡業で右アキレス腱を断裂、さらに同年7月の巡業中土俵入りで四股を踏んだ途端に同じ箇所を再び断裂してしまった。すでに30代に入っておりその後も後遺症で休場するなど再起が絶望視された。それでも1年半の休場の後の復帰場所となった1949年(昭和24年)5月場所は11勝4敗で何とか踏みとどまった。1952年(昭和27年)1月場所では最後の優勝を全勝で飾った。このときの37歳2ヵ月は最高齢での全勝優勝の記録であり、未だに破られていない。戦前戦後の優勝額を併せ持つ唯一の力士であり、序ノ口から幕内まで全階級の優勝経験も持つ。

優勝回数は7度だが、長く上に双葉山がいて直接対戦がなかったこと(加えて当時は優勝決定戦がなく同点者は上位優勝という制度がありこれで優勝を逸したこともあった(1941年1月場所、14勝1敗。優勝者は双葉山))、最盛期に戦後の混乱で場所の開催もままならなかった時期のあることなどから、これは数字以上に高く評価されるべきだろう。全勝優勝も4回ある。

2度のアキレス腱断裂から奇跡的に復活、豪快な横綱土俵入り(不知火型)で人気だった。横綱在位は2代目梅ヶ谷の24場所を凌ぐ当時の記録。在位年数12年3ヵ月の記録は未だに破られていない。スピード昇進と長期横綱在位という、二つの相反する性質の記録を持つ稀有な横綱だった。

1953年(昭和28年)1月場所では二瀬山に右手親指を噛まれて骨折したが照國が前日に引退したばかりで他の2横綱(東富士、千代の山)も不振だったため休むに休めず、添え木をし痛み止めを打ちながら土俵に上がったこともあった(添え木は土俵に上がる際に外した)。一方で腹が弱かったらしく油の多い食べ物は大嫌いで食べるとすぐに腹を壊した。このため中華料理などは避けていた。また、熱に弱く、37度程度の発熱で大騒ぎをしたという。

横綱として強かっただけではなく他の力士の危機を救った人格者としても知られる。大関時代は幕下の福住(のちの玉乃海)が酔った勢いでタクシー運転手とケンカし、憲兵が仲裁に入って暴力事件となり、あわや銃殺という場面で必死に詫びを入れどうにか許してもらい、戦後は十両時代の若ノ花が酒を飲んでいる時に所持金が不足して付き人を使い東富士のところへ借りに行かせて除名されそうになった時もこれを食い止めた。

「双葉山がいなければ羽黒山が一時代を築いていた」という見方もあるが、彼の強さは双葉山との稽古によるものが大きく、この見方が果たして本当かどうかはかなり疑わしいところである。

1952年12月の先代逝去後は現役二枚鑑札で立浪部屋を継承し、1953年9月場所かぎりで現役引退、年寄専任となった。現役時代から後進の育成に熱心で、若羽黒を大関に昇進させ、また、襲名中に時津山・安念山(のち羽黒山)、若羽黒、若浪の4人の幕内優勝者を出した。時津山・安念山・若羽黒に北の洋を加えた4人は「立浪四天王」と謳われた。また吉葉山ら、部屋の内外を問わず若手力士に胸を貸し、成長に貢献した点は特筆される。日本相撲協会の理事も務めた。

1969年(昭和44年)10月14日、東京都新宿区の慶應義塾大学病院にて尿毒症により逝去。享年54。部屋は羽黒山の長女と結婚した安念山が継いだ。

主な成績 [編集]
幕内在位: 39場所(小結2場所、関脇1場所、大関4場所、横綱30場所)
幕内通算成績: 321勝94敗1分117休 勝率.773
横綱通算成績: 230勝62敗114休 勝率.788
幕内最高優勝: 7回(全勝4回)
同点1回
連勝記録: 32(1945年6月場所6日目安藝ノ海戦から1947年6月場所7日目汐ノ海戦まで)不戦勝制度導入後5位タイ

2009年03月16日

金峯山寺

金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある修験道系の仏教寺院。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角(えんのおづぬ)と伝える。金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野郡吉野町)と、その南方20数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)を含む山岳霊場を包括した名称であった。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。

奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角(えんのおづぬ)が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊(さくらもとぼう)、喜蔵院、吉野水分(みくまり)神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。「吉野山」とは、1つの峰を指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域地名である。また、吉野山の20数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺(おおみねさんじ)がある。吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者を「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者を山上の蔵王堂と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。

役行者と蔵王権現 [編集]
国土の7割を山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていた。中でも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県の熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験者などと呼ばれる山林修行者が活動していた。こうした日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達をとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角である。
ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ

役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で広く知られる役小角は、7世紀前半に今の奈良県御所市に生まれ、大和と河内の境にある葛城山で修行し、さまざまな験力(超人的能力)をもっていたとされる伝説的人物である。奈良県西部から大阪府にかけての地域には金峯山寺以外にも役行者開創を伝える寺院が数多く存在する。『続日本紀』の文武天皇3年(699年)の条には、役小角が伊豆へ流罪になったという記述がある。このことから役小角が実在の人物であったことはわかるが、正史に残る役小角の事績としては『続日本紀』のこの記事が唯一のものであり、彼の超人的イメージは修験道や山岳信仰の発達とともに後世の人々によって形成されていったものである。

金峯山寺は役行者が創立した修験道の根本寺院とされているが、前述のように役行者自体が半ば伝説化された人物であるため、金峯山寺草創の正確な事情、時期、創立当初どのような寺院であったかなどについては不詳と言わざるをえない。

金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現という、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格である。金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表わし、片足を高く上げて虚空を踏むものである。インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響を受けて、日本で独自に創造されたものと考えられる。修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされている。

2009年03月01日

久々に拳銃に変形するメガトロン

D-01 破壊大帝メガトロン/Megatron
初代以来、久々に拳銃に変形するメガトロン。ただし遊戯銃に関するアメリカの法規制にひっかからないような実銃から遠い形状になっている(銃社会を参照)。 Classics 版はライトグリーンや紫を多用した派手なカラーリングになっているが、ヘンケイ版は黒とグレーでまとめた従来のイメージ通りのカラーリングに変更された。メッキは胸部、脚部、スコープのデストロンマークなど、グリムロックに次いで多く施されている。
D-02 航空参謀スタースクリーム/Starscream
旧作と同様、F-15系の戦闘機に変形。変形機構はロボットマスターズのそれに近いが腕部分の処理が変更され、よりアニメ版に近い体形になっている。またヘンケイ版ではClassics 版と比べカラーリングもアニメ版に近づけられた。メッキはナルビームの砲口部分に施されている。
D-03 トリプルチェンジャー輸送参謀アストロトレイン/Astrotrain
旧作と同様、スペースシャトル、列車に三段変形する、本シリーズ初のトリプルチェンジャー。ただし、列車モードは旧作の機関車から新幹線(九州新幹線つばめがモチーフ)に変更されている。 Classics 版では当時発売された玩具のような白と黒を基調にした塗装だったが、ヘンケイ版では試作段階の時と同じ灰色と紫色を基調とした塗装に変更される事でアニメ版に近い配色になっている。主翼にデストロンマークが追加されている。
D-04 航空兵ラムジェット/Ramjet
スタースクリームの仕様変更品。翼の形状は旧作同様の三角翼に、頭部はアニメ版に準拠した尖った頭に変更されており、シルエットはスタースクリームと大きく異なる。日本版ではアニメに近いカラーリングに変更されており、主翼も赤い成型色に変更され(Classics 版では黒い成型色に赤い塗装)、主翼と機首にそれぞれデストロンマークが追加されている。また、ジェットエンジンとコクピット内部のシートがメッキ仕様になっている。
航空兵サンダークラッカー/Thundercracker
ジェットロンのサンダークラッカーのリメイクで、旧玩具同様スタースクリームの色替え。基本的な仕様は色が違う以外、スタースクリームやスカイワープと同じ。日本では願望百貨店限定で受注生産商品として通信販売。ジョイントの一部が他のジェットロンと比べるとかなり緩い。
航空兵スカイワープ/Skywarp
ジェットロンのスカイワープのリメイクで、サンダークラッカー及び旧玩具同様、スタースクリームの色替え。スタースクリーム同様、アニメに近いカラーリングに変更。メッキが施されている部分も同じだが、これ以外にもコクピット内部のシートが紫色になっており、ジェットエンジンもメッキ仕様になっている。サンダークラッカー同様に日本ではトイホビーマーケット限定で受注生産商品として通信販売された。
D-05 トリプルトロン補給兵デストロンオクトーン/Tankor
かつてのキャラ名はオクトーン。アストロトレインに続くトリプルチェンジャー第二弾。肩書は2010時のデストロンサイドのトリプルチェンジャーの呼称である「トリプルトロン」が使用されている。ガンシップとタンクローリーに変形。いずれのビークルモードも旧作よりミリタリーテイストが強くなっている。日本版では銃とツインブレードシールドの根元がメッキ仕様になっており、ロボットモードの胴体部分の塗装箇所が増えている(Classics 版ではほとんど黒一色だった)。
D-06 新破壊大帝ガルバトロン/Galvatron
メルカバに似た戦車に変形する。玩具はホットロディマスとほぼ同じサイズで、その為メガトロンよりも二回りほど小さい。本来はメガトロンと同じサイズで第三の砲台モード(蜘蛛の様な姿をした多脚自走砲)が存在していたが、製品化直前の段階で急遽現在のサイズに変更され第三形態もオミットされたとの事。その名残か、ロボットモードの背中に足の様なパーツ(付属漫画では武器として使用)が存在し、変形難易度も高めになっている。日本版は砲台とロボットモードの腹がメッキ仕様になり、紫色の部分が若干薄くなっている。
G1とは違い、メガトロンが自分の意思でエネルゴンの力を得てパワーアップし、変化した姿という設定になっている。サイバトロン全員を一人で一蹴してのける程の凄まじい力を見せつけたが、自身の肉体がエネルゴンの強大過ぎるパワーに耐え切れず、元のメガトロンの姿に戻ってしまった。
D-07 航空参謀サイクロナス/Cyclonus
V字翼のSFジェット機に変形。ターゲットマスター、ナイトスティックが付属。G1版に比べ、ジェット、ロボット両モードのプロポーションが格段に向上した。日本版ではウイングとナイトスティックの銃口がメッキ処理され、彩色もアニメ版に近いものとなっている。
「2010」とは違い、スタースクリームがまだ生きている為「航空参謀」が二人いる事になっているが、スタースクリーム自身が現在の地位に満足していないせいもあってか、現在の時点では地位争いは起こっていない。(スタースクリームが「デストロンのNo.2」という意味合いに対し、サイクロナスの場合は「ガルバトロン(メガトロン)の腹心」という意味合いが強い。)

限定!ゲンテイ!トランスフォーマー
イベントや通販限定の商品(スカイワープ、サンダークラッカー、及びコンボイ クリスタルverは含まれない)に当てられる名称で、新規でロゴも作られた。
セロジネ ソラサ よどがわ リンネル マント チクング コスパ バックル マグニチ シンメト パトロール ナイト こだわ ブラック きえい イコライザ チューバ ミディサ ミオシン アケビ レッド 満龍 銀龍日本 ナイト シグマ ケマンソウ トハート スライダー セレシン おとずれ セーフ クサギ ナイト もろきゅ ローブ ナント テレマー デュー トロート ルシフ すげがさ ネオダマ 缶けり ドラム 山もみじ ドロップ プレス ニコラ トップ ハウンド

暴走兵スタントロンワイルドライダー/Wildrider
モデルはスタントロンのワイルドランダーだが、本シリーズではホットロディマスの色替えとして登場。キャラホビ2008限定販売。
航空兵スラスト/Thrust
ジェットロンのスラストのリメイクで、ラムジェットの仕様変更品。海外ではBotcon限定品だったが、日本では願望百貨店の通信販売限定品で発売。
航空兵ダージ/Dirge
ジェットロンのダージのリメイクで海外でのBotcon限定版はラムジェットのリカラーだったが、翼の形状がより劇中に近いものに変更されている。日本ではトイホビーマーケットの通信販売限定品で発売。

USAエディション
2008年10月、変形!ヘンケイ!シリーズとしてではないが Universe の商品が日本で発売された。メッキ処理はされていないが、やはり配色はUniverse版から大きく変更されている。

シルバーボルト/Silverbolt
コンコルドをモデルにしたと思われる超音速ジェットに変形。モデルはG1のエアーボットだが、合体機構はオミットされている。日本ではユニバースUSAエディションとして発売。アニメに近いカラーリングに変更されている。
パワーグライド/Powerglide
A-10をモデルにしたと思われる双発ジェットに変形。モデルはG1のミニボットだが、同じくミニボットだったバンブルよりも大きく、コンボイやスカイファイヤーよりも巨大な戦士となっている。ユニバースUSAエディションとして発売された際、ボディの色がアニメに準拠したカラーに変更された(海外版が白なのに対し、日本版は赤である)。また、ロボットモードの胸のカバーの中には『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』第37話のラストをイメージしたものと思われる、ハートマークが入っている。
オンスロート/Onslaught
デストロン側からのラインナップ。モデルはG1のオンスロートだが、合体ギミックはなく、警察用装甲車(所々に「S.W.A.T.」の文字が入っているため、恐らくSWATのものがモデル)に変形する。ユニバースUSAエディションとして発売され、色がグレーから青に変更された。

2009年02月10日

曽根崎心中

『曽根崎心中』(曾根崎心中、そねざきしんじゅう)は、近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として有名な物語。
おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

『曽根崎心中』は、元禄16年(1703年)4月7日早朝に大阪堂島新地天満屋の女郎はつ(21歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神の森で情死した事件に基づいている。

人形浄瑠璃『曽根崎心中』の初演は、元禄16年(1703年)5月7日の道頓堀にある竹本座での公演であったが、そのときの口上によると、それより早く歌舞伎の演目として公演されており、人々の話題に上った事件であったことがうかがわれる。1704年に刊行された『心中大鑑』巻三「大坂の部」にも『曾根崎の曙』として同じ事件のことが小説の形で記されている。

この演目を皮切りとして、『心中もの』ブームが起こった。近松の代表作の一つである『心中天網島』も1720年に発表されている。しかし、心中ものに共感した人々の間で、心中ブームが起こってしまい、江戸幕府は、1723年に上演を禁止すると共に、心中した者の葬儀を禁止するなどの措置をとることとなった。

人形浄瑠璃史から見た『曽根崎心中』
人形浄瑠璃というのはそれまで、ヤマトタケル伝説や義経物語など、人々によく知られた伝説や伝承を描くものであったが、近松はここに同時代の心中事件という俗世の物語を持ち込み、これまでの歴史物にたいして、世話物といわれるジャンルを創り上げたといわれる。俗世の事件を脚色するというやり方は、当時既に先例があったが、この作品を「最初の世話物」と位置づける本は『外題年鑑』などいくつかあり、それだけの評価を受けたということができる。

短い物語ではあったが、俗世間の事件を浄瑠璃で描くという試みや、作品としての面白さが受け、『曽根崎心中』は当時の人々に大絶賛で迎えられた。『今昔操年代記』にはその結果、竹本屋が借金を返済してしまったとのエピソードが伝えられている。

現代に復活した『曽根崎心中』
記念碑
復活公演
江戸時代に初演を含め数回で禁止されたが、筋が単純であることもあって、長く再演されないままだった。詞章は美しいため、荻生徂徠が暗誦していたとも言われる(大田南畝「一話一言」)。戦後1953年、歌舞伎狂言作者の宇野信夫が脚色を加え、復活した。人形浄瑠璃では1955年1月に復活公演が行われた。

歌舞伎:1953年、東京の新橋演舞場での上演で再開。中村鴈治郎 (2代目) ・中村扇雀(現・坂田藤十郎 (4代目) )による。原作にない、九平次の悪が露見する場面を入れ、扇雀のお初の美しさによりヒット、以後何度も宇野版で上演されるようになった。
人形浄瑠璃:1955年1月、四ツ橋の文楽座での上演で復活(脚本脚色・作曲:野沢松之助)。お初:吉田栄三、徳兵衛:吉田玉男。原作をテンポなどにより原文からアレンジした。また江戸時代の初演時代には人形は2人で操作していたが、後に3人操作になっていたため足をつけるという演出がほどこされた。

他ジャンルでの展開
映画『曽根崎心中』(1978年、日本、監督:増村保造、脚本:増村保造+白坂依志夫)
お初:梶芽衣子、徳兵衛:宇崎竜童、九平次:橋本功
ROCK+文楽『曽根崎心中 PART2』(1980年)
作詞・構成:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、演奏:ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド
1980年、東京渋谷ジャンジャンにて初公演。のちに大阪、沖縄でも公演が行われた。
SUPER ROCK BUNRAKU 曽根崎心中(2002年)
作詞・構成:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、演奏:新☆竜童組
2002年に赤坂草月ホールで初公演。2003年に文楽の地元・大阪の国立文楽劇場、2005年には東京の国立劇場で再演。2006年には第13回読売演劇大賞を受賞した。
フラメンコ『FLAMENCO 曽根崎心中』
プロデュース・作詞:阿木燿子、作曲・音楽監修:宇崎竜童、振付:鍵田真由美・佐藤浩希
2001年に日本で初公演、文化庁芸術祭優秀賞を受賞。のち公演を重ね、2004年にはフラメンコの聖地ともいえるスペインでのフェスティバル・デ・ヘレスにも参加、高い評価を得た。FLAMENCO 曽根崎心中・公式サイト
室内オペラ『曽根崎心中』(1979年、入野義朗作曲)
舞台『曽根崎心中~久馬版~』(2006年)
脚本:久馬歩、演出:鈴木つかさ、出演:ザ・プラン9、五十嵐サキ、伊賀研二
お初:五十嵐サキ、徳兵衛:ヤナギブソン、九平次:鈴木つかさ、お玉:なだぎ武、近松門左衛門:浅越ゴエ
漫画『曾根崎心中!』(2008年、河下水希)
設定・展開の改変、時代考証の意図的な無視など、あくまで「原作を元にしたラブコメ作品」として志向されている。

慰霊像など
また、2004年の4月7日には301年祭として、露天神社境内にブロンズの慰霊像が建立され、2005年4月7日には、「大阪伝統文化を育む会」の主催により、写真展・資料展が開催された。

あらすじ
醤油屋の手代・徳兵衛と、遊女のお初は恋し合う仲であった。物語は、徳兵衛とお初が生玉の社で久しぶりに偶然再会したシーンから始まる。便りのないことを責めるお初に、徳兵衛は会えない間に、自分は大変な目にあったのだと語る。

徳兵衛は、実の叔父の家で丁稚奉公をしてきた。誠実に働くことから信頼を得、店主の姪と結婚させて、店を持たせようという話が出てきた。

徳兵衛は、お初がいるからと断ったが、叔父のほうは徳兵衛が知らないうちに、徳兵衛の継母相手に結納まで済ませてしまう。固辞する徳兵衛に、叔父は怒り、とうとう勘当を言い渡す。その中身は、商売などさせない、大阪から出て行け、付け払いで買った服の代金を七日以内に返せ、というものであった。徳兵衛は、やっとのことで、継母から結納金を取り返すが、どうしても金が要るという友人・九平次に三日限りの約束でその金を貸す。

語り終えたところで、九平次が登場。同時に、お初は喧嘩に巻き込まれるのを恐れた客に連れ去られる。 徳兵衛は、九平次に返済を迫る。が、九平次は証文まであるものを「借金など知らぬ」と、逆に徳兵衛を公衆の面前で詐欺師呼ばわりしたうえ、散々に殴りつけ、面目を失わせる。 兄弟と呼べるほど信じていた男の手酷い裏切りであったが、死んで身の証を立てるより他に、身の潔白を証明し、名誉を回復する手段が、徳兵衛にはなかった。

徳兵衛は覚悟を決め、密かにお初のもとを訪れる。お初は、他の人に見つかっては大変と徳兵衛を縁の下に隠す。 そこへ、九平次が客として、お初のもとを訪れるが、素気無くされ、徳兵衛の悪口をいいつつ帰る。徳兵衛は縁の下で、怒りにこぶしを震わせつつ、お初に死ぬ覚悟を伝える。

真夜中。お初と徳兵衛は手を取り合い、露天神の森へ行く。互いを連理の松の木に縛り覚悟を確かめ合うと、徳兵衛は脇差でお初の命を奪い、自らも命を絶つ。

なお、歌舞伎では徳兵衛の叔父が帰らない徳兵衛を探して天満屋を尋ねてくる場面と、お初と徳兵衛が天満屋を抜け出した後に油屋の手代が天満屋を訪れ、それによって九平次が徳兵衛の金をだまし取ったことが露見する場面が追加されている。

2009年01月24日

Xbox 360 エリート


ブリザード キング スイート アクター タッパー フリーズ 国道日 コピー ノルウェー ケーワイ スラック コスト ナース デビル スレンダ スパナ てらつつき ジェイ メラノーマ オーイー フォトグ クラッチ テリト キンシバイ ムラサキ オブジェク フィニ スベリン ビーズ ピュア カナッペ プレーグ すりはく ベスビア レーム ひっす フライ スタート ション パルメ メション ヘルプ ハイブ ロスカット イカーゴ フロー マグノリ 小夜時雨 サモエード ナビテラ
希望小売価格は日本では47,800円(税抜45,524円)、アメリカでの価格は479.99$(後に449.99$に値下げ)。2008年9月11日より39,800円(税抜 37,905円)に改定された[19]。

パッケージ内容は以下の通り。欧米におけるスタンダードモデルのパッケージ内容をベースに、HDDを120GBに変更しHDMI出力用のケーブル類を追加した(ただし日本では非HDMI環境用のケーブルはスタンダードモデルと同じくD端子ケーブルである)。

Xbox 360 本体(黒)
ハードディスク (120GB)
ワイヤレスコントローラー(1個、黒)
ヘッドセット(黒)
D端子 HD AVケーブル(日本以外ではコンポーネント HD AVケーブル)
HDMI AV ケーブル
LAN ケーブル
AC アダプタ
取り扱い説明書
単三乾電池 2本(ワイヤレスコントローラ用)
単品の120GB HDDに付属しているデータ移行用のケーブルとディスクは付属していないが、120GB HDDに同梱されている物がそのまま利用でき[20]、またエリート購入者向けにユーザーサポートでも提供する
希望小売価格は29,800 円(税込)で、2007年11月1日に27,800円(税込)に値下げ[14]。アメリカでの価格は299.99$(後に279.99$に値下げ[15])。 ハイビジョン出力には別途D端子 AV ケーブル等が必要。アメリカでは後述のアーケード発売後に出荷停止となった。日本でも販売終了となっている。

パッケージ内容は以下の通り。スタンダードモデルと異なり、地域によって映像出力ケーブルの違いはない。

Xbox 360 本体
コントローラー(1個)
コンポジット AVケーブル
ACアダプタ
取り扱い説明書
ゲームのデータ保存には別売メモリーユニット(64MB、512MB)やハードディスクが必要。別売ハードディスク(20GB、60GB、120GB)を取り付ければスタンダードモデルと同等の性能になる。

Xbox 360 アーケード
先述したコアシステムと同じカラーリングの本体(HDMI端子搭載、同梱のケーブルはコアシステムと同様)に、256MBのメモリーユニットと無線コントローラ、Xbox Live Arcadeタイトル5本を収録したディスクを同梱したパッケージ。コアシステムに替わるエントリーモデルとして位置づけられている。アメリカで2007年10月18日発売、日本でも2008年3月6日に発売[5]。2008年9月11日より19,800円(税抜 18,857円)に改定された。[19]。 2 ディスクに収録されているXbox Live Arcadeタイトルは以下の5本(3600MSP相当)。『UNO』のみ400MSP、他は各800MSPで配信されている物である。

UNO
パックマン チャンピオンシップエディション
フィーディングフレンジー
Boom Boom Rocket
Luxor 2
また日本では同ディスクに以下の5本の体験版も収録している[22]。

Zuma
3D Ultra Minigolf Adventures
Soltrio Solitaire
フロッガー
Marble Blast Ultra
価格についてはコアシステムと同様であるため、上記のXbox Live Arcadeタイトルで約5400円、256MBのメモリーユニットはこのパッケージ独自の物なので単純な比較はできないが、本体の価格としては8500円程度の値下げとなる。

各モデル間の機能比較
Xbox 360 コアシステム Xbox 360 アーケード Xbox 360 スタンダードモデル Xbox 360 エリート
HDMI出力端子無 20GB HDMI出力端子有 20GB HDMI出力端子有 60GB
価格(日本)
(改定前) 29,800円 無し 39,795円 無し
価格(日本)
(2007年11月1日改定)[14] 27,800円 34,800円 無し 47,800円
価格(日本)
(2008年9月11日改定)[19] 販売終了 19,800円 オープンプライス
在庫限りで販売終了 29,800円 39,800円
外装 白 白、光学ドライブのベゼルへのクロム塗装 黒、光学ドライブのベゼルへのクロム塗装
コントローラ ケーブル接続(ケーブル長3m) ワイヤレス(周波数2.4GHz) ワイヤレス(周波数2.4GHz、黒)
AVケーブル コンポジット AVケーブル D端子 HD AVケーブル[2] D端子 HD AVケーブル[2]
HDMI AVケーブル
ハードディスクドライブ なし なし(256Mメモリーユニット同梱) 20GB 60GB 120GB
ヘッドセット なし なし(欧米ではあり) あり(黒)
メディアリモコン なし あり(欧米では初回出荷分のみ) なし
HDMI (v1.2) 出力端子 なし あり なし あり
イーサネットケーブル なし あり
Xbox Live 1ヶ月
ゴールドメンバーシップ[1] あり

^ 本体でゲームタグを作成後、Xbox Liveにサインアップ時にシルバーメンバーシップを選択すると有効になる(PC等で作成したゲームタグを復元してもゴールドメンバーシップにはならない)。一台につき3つのゲームタグをゴールドメンバーシップに変更可能。
a b スイッチ切り替えでコンポジット接続も可能

プレミアムパック
日本では以下のプレミアムパックが発売された。

スタンダードモデルベース
HDMI端子非搭載、HDD20GBモデル
初回限定生産「発売記念パック」 - Xbox 360ヘッドセットが同梱。先着特典で『ファイナルファンタジーXI』のベータテスト版(テスト中は参加費無料)を配布。
Xbox 360 Blue Limited Edition: 2006 FIFA WORLD CUP公式家庭用ゲーム機 - 『2006 FIFA ワールドカップ ドイツ大会』、Xbox 360 フェイスプレート adidasコラボモデル、adidas コラボグッズ バンダナ2枚を同梱して2006年4月27日に限定1万台、オープンプライスで発売。
ロスト プラネット エクストリーム コンディション オンラインパック - 『ロスト プラネット エクストリーム コンディション』、Xbox 360ヘッドセット(ロストプラネットモデル)、Xbox Live 3ヶ月ゴールドメンバーシップ、追加ステージダウンロードカード(オンライン用特別ステージ「激戦区」)、設定資料集を同梱して、2006年12月21日に限定5千台、価格44,800円(税抜42,667円)で発売。
HDMI端子搭載、HDD20GBモデル
Xbox 360 バリュー パック - 『あつまれ!ピニャータ』と『Forza Motorsport 2』を同梱[14]して、2007年11月1日から期間限定発売。価格は34,800円(税抜33,143円)。
ロストオデッセイXbox360本体セット - 上記バリューパックとロストオデッセイを同梱したオリジナルパッケージセットをセブンイレブン限定商品として2007年12月6日発売。価格は39880円(税抜37980円)。
Xbox 360 デビルメイクライ4 プレミアムパック - 『デビルメイクライ4』を同梱して、2008年1月31日に初回限定生産で発売。価格は37,800円(税抜36,000円)。
Xbox 360 テイルズオブヴェスペリア プレミアムパック - 『テイルズオブヴェスペリア』ソフトとオリジナルフェイスプレートと収録台本レプリカを同梱して、2008年8月7日に台数限定で発売。価格は37,800円(税抜36,000円)。
HDMI端子搭載、HDD60GBモデル
Xbox 360 バリュー パック - 『エースコンバット6 解放への戦火』と『ビューティフル塊魂』を同梱して、2008年11月6日から期間限定発売。価格は29,800円(税抜28,381円)。
Xbox 360 ラスト レムナント プレミアムパック - 『ラストレムナント』ソフトとオリジナルフェイスプレートとメドレーバージョンプレミアムサウンドトラックCDを同梱して、2008年11月20に台数限定で発売。価格は34,800円(税抜33,143 円)。
コアシステムベース
初回限定生産「発売記念パック」 - 『PGR3 -プロジェクト ゴッサム レーシング 3-』と『NINETY-NINE NIGHTS』を同梱。
ブルードラゴン プレミアムパック - 『ブルードラゴン』を同梱、初回限定版にはフィギュア5体とフェイスプレートも同梱して、2006年12月7日に発売。価格は29,800円(税抜28,381円)。セブンイレブンオリジナルパッケージ限定版も発売された。2007年11月1日から希望小売価格を27,800円に改定。
トラスティベル 〜ショパンの夢〜 プレミアムパック - 『トラスティベル 〜ショパンの夢〜』とサウンドトラックDVDを同梱。2007年6月14日にオープンプライスで発売。
また、アメリカでは先述したXbox 360 Arcadeの他に、『MARVEL ULTIMATE ALLIANCE』と『Forza Motorsport 2』を同梱した「Go Pro」および「Go Big」が2007年の年末商戦向けに発売された。この2つの違いはベースの本体で、Go Proはスタンダードモデルベース、Go Bigはエリートベースである。[23]

スペシャルエディション
The Simpsons Movieエディション
アメリカで2007年7月に映画『The Simpsons Movie』のプロモーションとして、The Simpsonsのキャラが描かれた黄色のXbox 360がプレゼントされるキャンペーンが行われた[24]。
Halo 3スペシャルエディション
Halo 3の発売(日本では2007年9月27日[25])と同時に特別仕様版「Halo 3スペシャルエディション」が日本ではオープンプライス、米国では$399で発売。本体・コントローラー・ヘッドセットがHalo 3のキャラクターにちなんだカラーリングでHDMI搭載スタンダードモデルの色違いモデルである。65nm型CPUが搭載されているとされる。なお、Halo 3のソフトは同梱されていない。以下の同梱物はスタンダードモデルとの差分のみ表記。
Xbox 360本体(Halo 3スペシャル エディション)
ワイヤレスコントローラー(Halo 3スペシャル エディション)
20GBハードディスク(Halo 3スペシャル エディション)
ヘッドセット(Halo 3スペシャル エディション)
プレイ&チャージキット(ブラック)
Halo 3ゲーマーアイコン&テーマご利用コード
この他、「Halo 3 リミテッドエディション」として、Halo 3仕様のカラーリングを施したワイヤレスヘッドセットと、トッド・マクファーレンによるHalo 3のイラストが描かれたワイヤレスコントローラーが同時発売。

2009年01月17日

東の海神 西の滄海

延王・尚隆、延麒・六太は共に胎果であり、蓬莱で生まれ育った。六太は戦乱の中で親に捨てられた経緯から国を統治する者の存在を嫌い、蓬山に帰還した後も王を選べず、蓬莱へと戻ってしまう。蓬莱でたどり着いた滅亡寸前の小国の当主が小松三郎尚隆であった。会った瞬間に王気を感じた六太であったが、前述の理由により誓約を交わすことはなかった。しかし、尚隆の命を懸けて民を守ろうとする姿勢に自らの理想を重ね、絶体絶命の尚隆を助け、延王として十二国へと連れ帰った。

それから20年後、雁国は荒れた荒野から緑の大地へと復興を遂げていた。しかし、元州では梟王時代に破壊された漉水の堤が復旧されず、謀反の動きがあるという情報があった。ある日、六太の古い親友である“駁更夜”と名乗る少年が玄英宮を訪れることから事態は進展する。更夜は六太を元州城へと連れ去り、元州の令尹・斡由は六太に「漉水の堤」を名目として「上帝位の新設」を奏上した。権力者の存在に否定的な六太はこれを拒否し、牧伯の驪媚と共に元州城に監禁されてしまう。

尚隆のもとへも同様の要求が伝えられたがこれを拒否すると、成笙を元州に派遣し、道中で民を募って漉水の対岸に堤を築くよう指示する。対岸にのみ堤を築かれることに危機を覚えた斡由は州師に対岸の堤を切るよう指示、州師と民の戦いとなり王師が民を守るという、「民のために堤を」を掲げる斡由にとっては皮肉な構図になってしまう。

一方、驪媚の決死の行動によって六太は自由の身となるが、地下迷宮に迷い込んでしまう。六太はそこで先の元州候・元魁と遭遇し、斡由の人となりを知り、斡由は民のためにならないと確信する。六太は斡由と対峙し自分の考えを伝えるが、斡由は非を家臣の白沢や更夜へ転嫁することを試みる。しかし、尚隆によって全てを断罪され、怒りから斡由は尚隆に斬りかかるが、最期は六太の使令によって瀕死の重症を負い、尚隆に介錯され絶命する。
トウワ マリンシャ パスネ マイル 琴の波 日本検索 ジュピター ライム ティーカ トラック パワステ カラー ミューズ レイオフ テレホ レイヤ チャイナ ダリー バッケン セル ハイスク チャリス おおみ ウバイド ドレープ ぎおんうお かぼちゃ レコアダー フィール もちは チキン ブーバル つれあい マスカレ りざや ルマガ 伊予緋 すぺあみ スケルト 十二単 ストライプ ヒラタケ 仮面 エゴイス ゼノタイ クロスセル ドアマン パンダ アケミス サラサ


風の万里 黎明の空
陽子が景王となって1年、玉座にありながら靖共ら官吏の顔色をうかがう自らの姿に苦悩を感じていた。この世界の理も、国情も知らない自分に憤りを感じ、自ら市井に降りることを決意する。景麒の勧めにより遠甫という老人のもとで理を学ぶこととなるが、里家が襲われ遠甫がさらわれたことから虎嘯らと出会い、和州の乱へと繋がっていく。

大木鈴はその100年ほど前に蓬莱から流されてきた海客である。長く才国の飛仙・梨耀から執拗な虐めを受け続けていたが、決死の覚悟で采王に申し立て自由の身となった。女性・海客でありながら王となった景王に興味を持ち慶国を目指す道中で清秀と出会い、妖魔から受けた怪我で衰弱していく彼を支え共に慶国にたどり着くが、彼は慶国和州止水郷で郷長・昇紘の馬車に轢殺されてしまう。自暴自棄となる鈴であったが、虎嘯らと出会い宥められ、打倒昇紘の郎党に加わることとなる。

祥瓊は先の芳国の公主であったが、謀反によりその地位を失い、里家での貧しい暮らしや恭国での屈辱的な仕打ちが耐えられず出奔する。自分と同じ年頃で王宮に入った景王を妬み、逆恨みし、簒奪してやろうと慶国を目指していたが、道中で楽俊と出会ったことで考えを改めた。慶国の実情を知り、桓魋たちと出会った祥瓊は、呀峰討伐、和州の乱に身を投じることとなる。

陽子・虎嘯・鈴らは打倒昇紘を掲げ郷城へと乗り込む。郷城への突入は成功したが、呀峰は昇紘を庇うため州師を派遣する。州師相手では圧倒的に勢力の劣る虎嘯らであったが、桓魋・祥瓊らの加勢により戦況は一転する。しかし、続いて派遣されたのは王直属の禁軍であった。呀峰もまた靖共に庇われていたのである。王師を目の当たりにして動揺する人々の中にあって陽子は鈴と祥瓊の話を聞き、王としての責任を確信すると共に、王として行動する決意を固める。