半島戦争は同時代におけるポルトガルの衝撃的な幕開けを表していた。リオデジャネイロへの宮廷の移転は、その後独立することになるブラジルの国家建設の始まりであった。宮廷、政府、陸軍からなる15,000人以上の人々がポルトガル艦船に乗り亡命できたことは、ブラジルとってはおまけであり、ポルトガルにとっては見せかけの恩恵であった。なぜならば、それは独立へのエネルギーを解放したからである。 不在間の王に指名されたポルトガルの知事には、フランスの侵略とイギリスの占領が続くために、僅かに影響していた。戦争大臣のミゲル・ペレイラ・フォルハスの役割は独特なものであった。ウェリントンは大臣を「イベリア半島でただ一人のまともな政治家」と見ていた。ポルトガル軍の参謀と55,000人の常備軍、50,000人以上の国民防衛隊「ミリシアス」と様々な数の郷土防衛隊「オルデナンサス」を(全体で10万を越えると目される兵力)創設を指揮した。1812年にロシアの宮廷大臣であるシュタイン男爵に送った手紙で、フォルハスは「焦土作戦」の採用が、ナポレオンの侵略を打破し領土守る唯一の方法として薦めた。ロシアのツァーリアレクサンドル1世は、ウェリントンのポルトガル軍戦略を模倣しナポレオンの大陸軍を飢えさせるために戦闘を避けるよう命令した。
フランス帝国との戦争で試練に晒され、訓練され、実戦経験したポルトガル本土残留の新しい階級層は、新生ポルトガル独立を主張する点で、本戦争における旧来の指導者層に多大な影響を与え、フランス革命に並ぶものでもあった。ベレスフォード元帥は1814年以後もポルトガル陸軍(隷下に160人ほどの英軍将校が中核となる)の司令官(国王がまだブラジルにいるので一種の植民地総督)として残留した。彼の元、ポルトガルの新政策が策定された。これはルソ-ブラジル連合王国のあり方、アフリカの植民地における奴隷供給問題、ブラジルの産業、ポルトガルとの交易など今後の国家計画が定まった。しかし、1820年までにこれら全てが維破綻した。ポルトガルの半島戦争に参加した葡軍将校は、イギリス軍人を追放し、8月24日にオポルトで自由主義革命を開始した。ポルトガルにおける自由主義体制の樹立は1832年から34年の内戦終結後に結実されることとなる。
スペインでの影響 [編集]
新国王ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)は当初フランスとの協力関係で近代化と解放が得られると信じていた「アフランセサドス」(親フランス派)のスペイン人に歓迎された。一つの例が異端審問の廃止であった。しかし、聖職者と愛国者は人民を煽動し、実際にフランス軍が抑圧する事件(1808年マドリード)がおきると、侵略者に対して人民を団結させ勇気付けるまでに拡大することになった。スペインに残っていた者は、フランス軍に従ってフランスに脱出した。画家のフランシスコ・デ・ゴヤはこれらアフランセサドスの一人であり、戦争後に、告発されたり可能性として考えられるリンチを受けないようにフランスに亡命しなければならなかった。
独立支持派は伝統派と自由派双方にいた。戦争後、新国王フェルナンド7世(待望の人(後に「彷徨える国王」))が、各地の連合を纏め上げフランスに抵抗すべくカディスで召集した独立議会が行った社会的前進を無効としたために、カルリスタ戦争で激突することになった。絶対君主制を復活させ、自由主義を標榜する者を全員起訴して処刑し、最後の悪行は、愛娘のイサベル2世のために王位継承法を変えたことであり、従って旧法での王位継承者である王の弟ドン・カルロスの支持者との内戦の世紀が始まった。従って、スペイン人が起こした独立戦争は、実際は、外国の占領よりも、専政、飢餓、破滅、死の方を選択し、スペインは百年も後退したのである。しかし近代化に対するスペイン人の渇望は、やがてリエゴ革命等によって現実化されて行くのである。
自由主義議会は1812年3月19日制定の1812年スペイン憲法を可決した。それらは後に、王によって、破棄された。
一方、植民地だったスペイン領アメリカでは、クリオーリョが各地の市参事会にてフェルナンド王に対して忠誠を誓う連合組織を結成した。この自治の経験と、フランシスコ・デ・ミランダらによる独立への動きが元になって後に、自由主義者(リベラトルス)にスペイン領アメリカ植民地の独立を促すことになった。シモン・ボリーバルもその一人である。
フランス軍はカトリック教会の大量の財産を多く略奪した。教会と尼僧院は、馬小屋や兵営に使用され、スペインの文化遺産が深刻な打撃を受けることになる美術品は、フランスに送られた。加えて英葡軍がスペインの都市と農村を略奪した。戦争の影響は、スペインの経済を著しく低下させ、19世紀の停滞をもたらすことになる。
主な戦闘と包囲戦 [編集]
メディナデルリオセコの戦い(1808年7月14日) フランス軍がスペインで初めて大勝利を収めた。イベリア半島に保安隊を創設した。
バイレーンの戦い(1808年7月19日) デュポン将軍が総指揮を取るフランス軍23,000名が、ハエーン地方(アンダルシア)のバイレーンでカスタニョスが指揮する3万のスペイン兵に包囲された。5回出撃を試みて、フランス軍は降伏した。
ロリサの戦い(以前は英語でRoleiaと綴っていた。)(1808年8月17日) ウェルズリーが15000のイギリス軍とモンデゴ湾に上陸し、リスボンに向けて南進した。アンリ・デラボルド指揮のフランス軍は、補給を待ってウェルズリーの進軍を遅らそうとした。第29歩兵連隊による早まった攻撃は、成功しフランス軍撤退の原因になる総攻撃の命令をウェルズリーが下さざるを得なくなる。小競り合いだったが、イギリス軍の半島戦争での最初の戦闘であり、ヘンリー・シュラプネル大佐の球形の弾丸が初めて使われた。
ビメイロの戦い(1808年8月21日) ロリサの戦いの4日後、今度は17,000の英葡連合軍を構成するウェルズリー軍は、ジュノー将軍の部隊に攻撃された。この攻撃はフランス軍が2,000名の死傷者を出して撃退され、ジュノーはトレスベドラス近郊に撤退した。
ソモシエラの戦い(1808年11月30日) ナポレオンのマドリードに向けた戦闘で、ヤン・コジエトゥルスキ指揮のポーランド警備隊の勇敢な突撃で有名
メデリーンの戦い(1809年3月28日) 17,500名のフランス軍が、グレゴリオ・デ・ラ・クエスタ将軍指揮のスペインの大軍を敗走させた(千人につき1万人の死傷者)。
タラベラデラレイナの戦い(1809年7月27日-28日 55,000のウェルズリー英西軍が、マドリードの南西110km(70マイル)の町タラベラデラレイナでジョゼフ・ボナパルト王、ジュルダン元帥、ヴィクトル元帥のフランス軍46,000名と対峙した。実際はウェルズリー軍がクエスタ将軍の寄せ集めのスペイン兵が3,500名いるという不利な状況にもかかわらず、ウェルズリーは勝利を収めた。死傷者はイギリス軍が5,500名、スペイン兵が1,000名、フランス軍が7,200名であった。
オカナの戦い(1809年11月19日) スールト将軍指揮の約29,000名のフランス軍が5万のスペイン正規軍を撃破した。壊滅的な損害を被り、スペイン南部の多くが陥落した。
ブサコの戦い(1810年9月27日 26,000名のポルトガル軍と4,5000名のイギリス軍の連合軍は45,000名のメセーナ軍を破った。死傷者はポルトガルが626名、イギリスが626名(素晴らしい一致)、フランスが約4,500名であった。
トレスベドラス線防衛(1810年冬–1811年) 「ナポレオン衰退期」の1810年10月14日のソブラルの小競り合い以外はクローズウィッツの勝利はなかった。
フエンテスデオノロの戦い 1811年5月3日 – 5日
アルブエラの戦い(1811年5月16日) ウィリアム・ベレスフォード卿指揮の連合軍35000名は、スルト元帥がフランス軍24,000名と包囲を解こうとするのを妨害するためにバダホスから南に移動した。フランスの攻撃は、結局失敗した。全軍が勇敢に戦い、ジョアシム・ブレーク将軍の師団は、フランス軍を撃退し、イギリスの狙撃旅団は「頑強な抵抗者」のように栄光に輝いている。ポルトガルの第11師団第23旅団は、フランス軍との「戦闘の局面を変える」歩兵攻撃を導いた。
バダホスの戦い(1812年4月6日) フィリポン将軍指揮のフランス軍5,000名とのバダホスの頑丈に強化された要塞は、3月16日から3万のウェルズリー英葡軍に包囲されていた。4月6日夜、強襲を繰り返して、防衛線突破に成功し、フランス軍は降伏した。フランスが1500名、英葡連合軍が5,000名を失った。
サラマンカの戦い(アラピレスとも)(1812年7月22日) ポルトガルへの撤退中、ウェルズリーの英葡軍48,000名は、マルモン元帥指揮の5万のフランス軍にサラマンカ近郊で攻撃を受けた。イギリス軍はベルトラン・クローゼル将軍がフランスが有利な状況を保ったまま攻撃に踏み切って1時間未満でほぼ勝利を収めた。ウェリントンとベレスフォードは、ポルトガルの第3師団第15旅団とフランス軍の進路に向かって反撃を指揮した。スペイン軍が退路を断つのに失敗し、フランス全軍を捕らえることはできなかった。それでもフランス軍の損害は死傷者7,000名、捕虜となった者7000名以上であった。
ビトリアの戦い 1813年6月21日
人物 [編集]
スペイン人 [編集]
政治家 [編集]
マヌエル・デ・ゴドイ(1767年 - 1851年)(スペインの堕落した首相) 自分の陰謀と怠慢で1808年に事実上抵抗もなくフランス軍にスペインを支配させてしまった。スペイン王妃マリア・ルイーサの愛人であると言われる。王子フェルナンドすらゴドイとマリア・ルイーサの子であると噂された。
カルロス4世(1748年 - 1819年)(意志薄弱で無能な国王) ゴドイの言いなりで、1808年にナポレオンが退位させた。
フェルナンド7世(1784年 - 1833年)(スペイン皇太子) 1808年に即位したが、すぐにフランス軍により亡命を余儀なくされる。代わりにジョゼフ・ボナパルトが国王になったことで、半島戦争の始まりとなる5月2日の反乱を引き起こした。戦争末期に復位したが、10年間の混乱で19世紀の大半を経済的な混乱と無秩序に近い混沌状態にスペインを陥れた。
将兵 [編集]
ミゲル・デ・アラバ(1770年 - 1843年)(スペインの将軍) 只一人トラファルガーの海戦とワーテルローの戦いに参戦した
ホアキーン・ブラケ・イ・ホイエス(1759年 - 1827年) ナポレオンの第二次侵攻の際のガリシア軍司令官
フランシスコ・ハビエル・カスタニョス(1758年 - 1852年) バイレーンの戦いで勝利したスペインの有名な将軍。戦闘で初めて大陸軍部隊を負かした。
グレゴリオ・ガルシーア・デ・ラ・クエスタ(1741年 - 1811年) イギリス軍と大規模な合同作戦を行ったスペインの中心的な将軍だが、度々大損害を出した。
ペドロ・デ・ラ・ロマナ(1761年 - 1811年)(ガリシア軍の偽司令官) フランスからガリシアとアストゥリアスを解放した。
ホセ・オドネル(1769年 - 1834年)(スペインの将軍) カタルーニャの最高司令官
ホセ・デ・パラフォックス(1776年 - 1847年)(スペインの将軍) アラゴーン軍の艦隊長に選ばれ、1808年と1809年にサラゴサ防衛で叙勲される。
ホセ・デ・サン・マルティーン(1778年 - 1850年)(スペインとアルゼンチンの軍人、師団長) バイレーン、アルブエラ、トレスベドラスで戦う。1810年5月25日にブエノスアイレスで五月革命が勃発したことを聞くと、出身地のアルゼンチンに帰国し、戦後南米の解放者の一人になる。
ホセ・デ・サヤス(1772年 - 1827年) スペインで最も立派な司令官の一人
トマース・デ・スマラカーレギ(1788年 - 1835年)(スペインの将軍) バスク人。後年カルリスタ戦争で勇名を馳せる。
ゲリラの指導者と革命家 [編集]
アウグスティナ・デ・アラゴーンはサラゴサ包囲の際に活躍した女性
ルイース・ダオイース・デ・トレス(1767年 - 1808年)とペドロ・ベラルデ・イ・サンティリャーン(1779年 - 1808年) 1808年5月2日のマドリード暴動を指導した砲兵将校。死後国民的英雄となる。
フアン・マルティーン・ディーエス(1745年 - 1824年) El Empecinado(不屈の人)として知られる立派なゲリラ指導者
フランシスコ・エスポス・イ・ミナ(1781年 - 1836年)(ゲリラ指導者) 恐らくスペインの偉大なゲリラ指導の中で最高の戦略家で、フランスが支配する場所を誰にも咎められずに放浪できたことで有名。時折待ち伏せ攻撃で全フランス連隊を全滅させた。
その他 [編集]
フランシスコ・ゴヤ(1746年 – 1828年)(スペインの画家) 戦争中の虐殺を写実的に描いた。
フランス人 [編集]
ジョゼフ・ボナパルト(1768年 - 1844年) スペイン国王。ナポレオン・ボナパルトの兄。当初ナポリ王(1806年 - 1808年)で、ボルボーン(ブルボン)朝の意向によりスペイン国王(ホセ1世)になった(1808年 - 1813年)。スペインの旧体制改革と近代化を目指すも、独立戦争の現実の前に挫折した。
ジャン=バティスト・ジュールダン(1762年 - 1833年) フランスの元帥
ジャン=アンドシュ・ジュノー(1771年 - 1813年) フランスの将軍で外交官
オーギュスト・マルモン(1774年 - 1852年) フランスの元帥
アンドレ・マッセナ(1758年 - 1817年) フランスの元帥
ジョアシャン・ミュラ(1767年 - 1815年) ナポリ王。フランスの元帥。ナポレオンの義理の兄弟でベルク大公(1806年 - 1808年)に叙された。フランスのスペイン侵略の端緒を導いた。そして、ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン国王になるまでは、その地位を希望した。ジョゼフが国王だったナポリ王国を慰労の褒章として与えられた。
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト(1769年 - 1851年) フランスの元帥。スペインでの半島戦争で指揮権を保持した。ポルトガルに1809年に侵略し、ポルトガル国王への野心を募らせたが、ウェルズリーとシルヴェイラの連合軍によって退けられた。ワーテルローの戦いの参謀長であった。戦争大臣(1830年 - 40年)。
イギリス人 [編集]
アーサー・ウェルズリー(1769年 - 1852年) イングランド系アイルランド軍人で政治家。ウェルズリーは半島戦争の間、同盟軍の指揮で成功おさめ少将から陸軍元帥へと昇進し、後にウェリントンの貴族となり、さらにウェリントン子爵。1814年にはウェリントン公爵家を創設した。
ジョン・ムーア卿(1761年 - 1809年) ラコルニャの戦いで戦死するまで、シントラ協定により英国軍を指揮した少将
ウィリアム・ベレスフォード(1768年 - 1854年) ポルトガル陸軍の元帥に昇進し、有能で訓練された戦闘部隊を纏める任務を与えられたイギリス軍の将軍。ブサコの戦いで勲功爵になった。
ロワルドヒル卿(1772年 - 1842年) ウェルズリーが独自に指揮することを任せた数少ない将校の一人。多くの戦闘で重要な役割を果たして、1812年に中将に昇進した。
ロバート・クラウフード(1764年 - 1812年)はジョン・ムーアの下で旅団長として戦争を始め、少将に昇進して間もなくロドリゴ市を急襲した。
トーマス・ピクトン(1758年 - 1815年) 第3師団を指揮した少将で、ウェルズリーの最も有能な上級将校の一人。1813年に勲功爵になり中将に昇進した。ワーテルローの戦いで戦死した。
ポルトガル人 [編集]
ベルナディム・フレイレ フランス侵略軍に対するポルトガル人の暴動を指揮した将軍。ビメイロでウェリントンを補佐した。1809年3月27日に暴徒に暗殺された。
フランシスコ・ダ・シルベイラ 将軍で、1808年 - 1813年にポルトガル北部で民兵と軍の師団を指揮した。ビトリアとピリネウスの師団長
ミゲル・ペレイラ・フォルハス 将軍で戦争省長官。1806年からポルトガル軍の改革を推し進め、戦争を機能的に行えるよう手助けした。
マヌエル・デ・ブリト・モシノ 1809年以降で最も成功した副官長。5万人ほどで機能的に戦争を遂行できるようにフォルハスとベレスフォードを手助けした。
トマース・ギレルメ・ストゥッブス 半島戦争中に連隊長と旅団長を勤め、自分自身とサラマンカ、ビトリア、ペレネー山脈の第11師団第23旅団の名前を世間に知らしめた。
カルロス・フレデリコ・レコル 1808年にイングランドでレアルレヒアンルシタナを組織。ウェリントン軍第7師団長でイギリス軍で唯一の外国人
ルイース・ド・レゴ・バレト 大佐で、後に准将になり、イベリア半島の主な戦闘で戦い、「勇敢なルイース・レゴ」とウェリントンの特派軍で称えられた。
ジョアン・カルロス・サルダナ 24年間しか生きられなかったにもかかわらず、サルダナ大佐(後の元帥)は1814年にバイヨンヌの包囲を解いた英葡合同師団を暫定的に指揮した。
諜報活動 [編集]
諜報活動は1810年を過ぎるとイギリス軍の戦争遂行に大きな役割を果たした。スペインとポルトガルのゲリラは、フランス軍の密使から通信文を奪取するよう依頼された。1811年からこうした文書類は一部または全文が暗号化されていることがよくあった。ウェリントンの参謀ジョージ・スカヴェルは解読する任務を与えられた。初めは使用する暗号はかなり単純で他の参謀の助けをもらった。だが、 1812年の始めには、更に難しい暗号が、独創的に外交文書用に改訂され、使われるようになると、スカヴェルは解読を進めていくことに夢中になった。解読作業はフランス軍の動きと配置に関する知識が上記の交戦で大きな成果を収める結果と共に徐々に進んでいった。フランス軍は暗号が解読されているとは知らず、ビトリアの戦いでその暗号表が奪われるまで使い続けた。
文学などへの影響 [編集]
プロスペル・メリメの小説「カルメン」 - これを基にした ビゼーのオペラ「カルメン」はこの戦争中の設定である。
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