2009年12月11日

新体制運動

新体制運動(しんたいせいうんどう)とは、昭和初頭から昭和20年(1945年)の敗戦にかけての日本において約20年間、主張された政治運動。
日本におけるファシズム運動であるという認識が根強いが、あくまで天皇の輔弼を目的とし、ナチス・ドイツ型の政治体制をとったわけではないため、この語は適当ではないといわれる。主に大政翼賛会に代表される。

新体制運動が進められた背景には、世界的なファシズムの台頭が挙げられる。当時、欧米諸国、とりわけソビエト連邦・イタリア・ドイツで一党独裁による挙国一致体制が進められていた。世界恐慌から通ずる情勢不安において、これらの国々が経済成長(不況脱却)をしているかのように見受けられたことから、全体主義こそが今後の世界の指針になりうると考えられた。
日本の知識人、特に時の首相、近衛文麿はこれを世界的潮流と認識し、やがて世界は「ソ連」、「ドイツ・イタリア」、「アメリカ」、「大日本帝国」の四大勢力による分割支配されるだろうと予想した。そのため日本では、時流に取り残されることを恐れ、また新体制に諸問題の解決を期待する運動が高まり、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが広く使われるようになった。

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この思想が広まった国々では共産主義とファシズムが台頭した。あくまで米国からの脅威に対抗しようとのみ考えていた日本においては、ファシズムと呼べるほどの政治思想は生まれなかったが、国難を解決し、米国の脅威から日本を防衛するために強力な政治団体が必要と感じた近衛は、昭和15年(1940年)、大政翼賛会を結成、ナチス・ドイツ型の新政体を目指した。

しかし、立憲君主として天皇を戴く日本においてこの新思想は違憲であるとする勢力や、外国の政治体制を基にした新思想は天皇を戴く国家体制が世界で最も優れた政治体制であるとした国体明徴声明に反するとする勢力、天皇以外の勢力が政治の実権を有するのは天皇を軽んじてきた幕府政治の復活であるとする勢力、さらには政党政治こそが日本の国体であると主張していた一部の政治家や既得権益を脅かされることを危惧する一部官僚からの反発も大きく、大政翼賛会の理念は骨抜きにされたと言っても良く、結局のところ大政翼賛会は国家総動員法を国民に浸透させ戦時生活を支えるだけの組織であった。

2009年11月30日

茶店風の本店が伊勢神宮内宮前のおかげ横丁にあり

茶店風の本店が伊勢神宮内宮前のおかげ横丁にあり、そこでは例年、夏場に「赤福氷」という、抹茶氷に赤福餅を入れたもの、冬場は赤福の餅と餡を使った「ぜんざい」が供されている。この「赤福氷」と「赤福ぜんざい」は、本店の他に、伊勢志摩地区・名古屋地区の一部の直営店でも、季節限定品として供されている。

赤福餅の箱の中には、「伊勢だより」というその日にちなんだ文章と絵の入った紙片が入っており、500種類ほどある。なお2008年2月6日の営業再開時から3月末までは「伊勢だより」に替えて、不祥事のお詫びと営業再開についての挨拶文が入れられていたが、4月1日より「伊勢だより」が再び入れられるようになった。またこの「伊勢だより」には社長名も入れられていたが、不祥事後の営業が再開されてからは社長名は入れられていない。

包装紙の上面には伊勢神宮の神殿と内宮前の宇治橋が、底側には赤福にちなんだ俳句が記されている。
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保存料を使わない生菓子であり、本来の消費期限は夏期は製造年月日を含め2日間、冬期は3日間である。

2008年度は、2月6日の販売再開時から5月16日までの間と、同年10月11日から翌年2009年5月17日までが冬季用の消費期限設定に、2008年5月17日より10月10日までの間は、夏季用の消費期限が設定された。包装紙の底側の俳句は、冬季用は正岡子規の句が、夏季用は山口誓子の句が記された。また折箱や銘々箱の帯封は、冬季用が臙脂色、夏季用が水色となっている。

原材料表記も「砂糖・小豆(北海道産)・餅米(国産)」と書かれていることは共通であるが、冬季用は「糖類加工品(大豆を含む)」を使用している旨が追記されているのに対し、夏季用は表記の原材料のみの使用のため、追記は除外されている。

2009年11月26日

家畜のカニバリズム

肉食の習慣や、いわゆる「共食い」とは違うが、豚の「尾かじり」や「耳かじり」・鶏の「尻突き」等、群れで飼育する家畜・家禽同士で、傷ついたり弱ったりした個体を(口を使って)集団で攻撃し、結果として死に至らせる行動も畜産学・動物行動学上では「カニバリズム」と呼ばれている。これらの行動は環境探索本能の転嫁と密飼いによるストレスが原因と言われており、遊具等の投入による欲求不満の解消や飼育密度の低減によってある程度の抑制が可能である。また近年では畜産物残渣の再利用という名目で肉骨粉等を飼料に混ぜることもあり、家畜が家畜を認識しない内に人為的カニバリズムをさせられる形となり、BSE(狂牛病)という感染症を発生させる結果となった。

cannibalismを動物が同種の他個体を食べる共食い(種内捕食:intraspecies predation)の訳語としてとる場合、共食いはアリやシロアリ等の社会性昆虫では頻繁に見られ、食料欠乏の場合には、幼虫・成虫が卵やさなぎを捕食する(飢餓状態に置かれれば、チョウの幼虫などの草食動物も共食いをする)。繁殖のためではなく、幼生に栄養を補給する目的で無精卵(栄養卵 Trophic Egg と呼ばれる)を産む行動は、カエル、ハキリアリ、クモなどに見られる。無脊椎動物や魚類など、成体と幼生(あるいは大きさの著しく異なる雄と雌)が同じ地域(同じ生物群集内)に生息する雑食動物や肉食動物の間では、食物ピラミッドの中では小さな個体が大きな個体の下に位置するため、カニバリズムが頻繁に起こりうる。そのような場合、カニバリズムが個体群数の周期的変動につながる例も多い。
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カニバリズムは無脊椎動物や魚類、両生類だけではなく鳥類や哺乳類等の高等動物にも見られる行動であり、チンパンジーの子殺しに伴う共食い等のように霊長類も例外ではない。自然状態での家畜とは異なるストレス以外のカニバリズムの理由としては、えさとしての価値に重点がある場合と同種個体を殺すことに重点がある場合、その両方を兼ねる場合があるが、チンパンジーの例ではその意義が未だよく解明されていない。

2009年11月12日

重農主義

重農主義(じゅうのうしゅぎ)とは18世紀後半、フランスのケネーなどによって主張された経済思想およびそれに基づく政策。富の唯一の源泉は農業であるとの立場から、農業生産を重視する。

重商主義を批判し、レッセフェール(自由放任)を主張した。この考え方はアダム・スミスの思想に大きな影響を与えることになった。

重農主義は、創始者と共通の思想を持った歴史上最初の経済学派である。

「physiocracy」とは、「physeos kratesis(自然(の秩序)による統治/支配)」という言葉に由来していると言われている。

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ケネーは『経済表』を作成してその自然が形成する秩序の姿を明らかにしようとした。彼は社会は神によって創造された自然秩序に基づいて形成されるものとして人為的な社会契約説には批判的であった。自然秩序は物理・道徳の両法則によって形成され、自然法と実定法はこれを制御するために生み出されたものである。人間は自然法則によって自己の欲望を満たしたいとする欲求を実現する権利を持っており、その実現を保障するのが自由権と財産権であり、国家は実定法を用いてこれを保障する義務を持つと唱えた。また、同時に彼は農業によって生み出された剰余価値(純生産物)が農業資本の拡大再生産をもたらす。一方、商工業は農業がもたらす原材料がなければ何も生産出来ず、生産者としての価値は存在しない。農業生産の拡大再生産による恩恵が原材料などの形で商工業に流れることで初めて商工業が発展すると唱えた。

2009年10月31日

氷室

氷室(ひむろ)とは、日本古来の氷を蓄えておく場所のことで現在の冷蔵庫にあたる。それが存在した場所が地名として残っている場合もある。

製氷する技術が無かった時代には、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管する必要がある。正確な記録は残されていないが洞窟や地面に掘った穴に茅葺きなどの小屋を建てて覆い保冷したとされる。氷室の中は地下水の気化熱によって外気より冷涼であるため、涼しい山中などではこの方法で夏まで氷を保存することができる。このように天然の物を保管するしかない時代、夏場の氷は貴重品であり、永らく朝廷や将軍家など一部の権力者のものであった。
美姫のハムちゃん
姫林檎
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宝踏み
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魔法屋敷
未羽ちゃん目には目を
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優 の結婚戦争
優奈のお受験
悠の初恋
悠翔の結婚準備
遊園地
遥の蛇の道は蛇だ
陽斗の八方美人
嵐の中で
陸斗のおいしいご飯

歴史的には『日本書紀』仁徳天皇六十二年の条に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が闘鶏(つげ。現在の奈良県天理市福住町)へ狩りに出掛けたとき、光るものを発見したとの記述が最初の登場とされる。それがその後も『日本書紀』の孝徳紀に氷連という姓が登場し、朝廷のために氷室を管理した職が存在したことがうかがえる。例えば朝廷の要職を占めた家の一つ鴨縣主家(主に賀茂神社の神官を輩出した、亦元豪族か。賀茂神社祭神は鴨家の氏神)の家系図には氷連、氷室の記述が見られる。

奈良で出土した奈良時代の長屋王の木簡から「都祁氷室(つげのひむろ)」と書かれたものも見つかっている。

2009年10月20日

地歌作品と箏の手付け

三味線の作品(地歌)は手事ものがほとんどで、その他には端歌ものも作曲している。手事ものは様式的には「京流手事もの」を完全に踏襲しており、さすがに既に三味線の技巧が極められてしまっている時代であるだけに、特別に吉沢が新たに切り開いた感はないが、やはり京都の作曲家のものとは少し違う独自性が感じられる。三味線の技巧もかなり高度に追求され、「花の縁(えにし)」は手事を二箇所に持つ堂々とした大曲であり、吉沢検校の作品における器楽面での充実ぶりを示している。同曲の他「玉くしげ」「夏衣」など、明るい雰囲気の曲が多いのも特徴である。

箏の手付けも全ての自作曲において自分で行っている。幼少の頃から箏にも長けていたらしく、既に11歳で地歌「屋島」に箏の手を付けているのをはじめ、既存の地歌曲にもいくつか箏の手付けをしているが、これらもやはり八重崎検校など京都の手付けとは雰囲気が異なっている。また作曲上大きな影響を受けた光崎検校の「秋風の曲」にも箏の替手を作っている。後述のように胡弓の手付けも非常に独創的である。
美月はおギャル
美姫のハムちゃん
姫林檎
楓がビックリ
歩く男
宝踏み
暴れん坊ママ
魔法屋敷
未羽ちゃん目には目を
夢の果てに
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夜をブッ飛ばせ!
優 の結婚戦争
優奈のお受験
悠の初恋
悠翔の結婚準備
遊園地
遥の蛇の道は蛇だ
陽斗の八方美人
嵐の中で

一方、同僚たちの妬みによって、辛い思いをした名古屋を去る時に作った端歌もの曲「捨扇」では、流麗な中に頻繁な転調や非常に凝った節付けの歌など、小品ながら侮りがたい作りで、作曲術の力量のほどが偲ばれるとともに、失意や悲しみがひしひしと感じられ、雅びな「千鳥の曲」や明るく華やかな「花の縁」などとはまた違った、吉沢の心の一面を垣間見ることができる。作曲者個人の生の心情を直接的に表すということも、ある意味近代的といえるかもしれない。

彼の作品全般を見渡してみると、内容としては恋愛的要素が数例しか見られないのが大きな特徴である。ことに地歌曲にその傾向が希薄なのは、三味線音楽として見た場合、まことに珍しいことである。

2009年06月20日

光学異性体(こうがくいせいたい)

光学異性体(こうがくいせいたい)とは主に有機化学で用いられる用語。"optical isomer" の訳語で立体異性体の種類を表す言葉だが、IUPACでは推奨されておらず、代わりに「エナンチオマー」や「ジアステレオマー」を使うことが推奨されている[1]。関連する光学的な現象の詳細については、「キラリティー」および「旋光」(光学活性)の項を参照されたい。

生化学や天然物化学、また薬学では、有機化合物の光学異性体の区別が重要になる。生体を構成する物質に異性体が多かったり、異性体の違いにより生理活性が異なるためである。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

歴史的には最初、互いに大きさが等しく正負が逆の「旋光性」(光学活性)を示す一対の化合物を互いに「光学異性体」と定義した。そして旋光性の原因が分子のキラリティーによることが判明すると、「鏡像異性体」、「対掌体」、または「エナンチオマー」の同義語として使われるようになった[2]。厳密に言えば「光学異性体」は光学活性という観測可能な物性に由来する用語であり、構造に由来する用語である「エナンチオマー」とは別の定義なのだが、実際上はほとんど区別せずに使われてきた。また不斉炭素原子を複数持つ分子の異性体である「ジアステレオマー」の概念が登場すると、エナンチオマーとジアステレオマーとを合わせて「光学異性体」とする使い方もなされるようになった[3][4]。だが今でも「光学異性体」を「エナンチオマー」の同義語として使っているテキストの方が多い。日本の高校の化学では未だに「光学異性体」という用語を使っているが、高校課程ではジアステレオマーがまだ扱われないため、このような曖昧性はあまり問題にはならないようである。

光学異性 (optical isomerism) という言葉は結晶構造に由来する旋光性に関して使われることもある[3]。これは結晶格子の配置に由来する旋光性であり、特に「左右像 (enantiomorph)」と表される。

命名法 [編集]
IUPAC命名法では右旋性を(+)で左旋性を(-)で表し、絶対立体配置は不斉中心の4個の置換基の命名上の優先順位によりSまたはRを用いるRS表示法で表す。ただし、旋光性と絶対配置の間に法則性は無いので、両者の関係は独立している。

また、歴史的経緯により、d, l も用いられるが、旋光性ではなく相対立体配置を意味する場合があるので注意が必要である。現在のIUPAC命名法では相対立体配置は D, L で表すのが正しい。

dl および DL、さらに (+)(-) は1分子全体にひとつ付ける名称記号だが、RS は分子内の不斉中心ごとにひとつひとつ付ける記号である。したがって複数の不斉中心を持つ分子では、その数だけ名称中に R または S の記号が添えられることになる。

ちなみに、d, l は dextro-rotatory(右旋性)、levo-rotatory(左旋性)に由来する。dextro、levoはそれぞれギリシャ語の右、左を意味する語から来ている。一方、R、S はラテン語の右、左を意味するRectus、Sinisterに由来する。

2009年06月02日

プロイセン以外では唯一、後装式小銃への

プロイセン以外では唯一、後装式小銃への換装を進めていた英国以外の欧州諸国は、1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争によって、ドライゼ銃の存在によりプロイセンの連合軍が驚異的な戦力に変化している事を知った。

続く1866年の普墺戦争においてドライゼ銃は最大の活躍を見せた。先込め式銃を使っていたオーストリア兵が、立ったままの姿勢で次弾を再装填するまでの間に、プロシア兵は5発(もしくはそれ以上)を地面に伏せたままで発射し、敵をなぎ払ったのである。

この様を現地で見ていた外国軍の観戦武官は「ニードルガンは王者だ」と評し、その様子がフランスへ伝わると、敵兵の死体の山を前にしたニードルガン発明者が喜色の笑みを浮かべている風刺画が描かれた。
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準同盟関係にあったオーストリアがプロイセンに惨敗し、ドライゼ銃の性能を知って愕然としたフランス陸軍は、ドライゼ銃を研究・改良したシャスポー銃を1866年に急遽採用した。

双方が紙製薬莢を使用する小銃で戦った戦争となった1870年の普仏戦争では、ドライゼ銃に対して倍の射程を誇るシャスポー銃や、ミトライェーズ斉発砲など各種の新兵器を装備していたフランス軍が圧倒的な優位に立っているかに見えていたが、フランスより巧みに新技術(鉄道・電信)と組織(参謀本部・諜報部)を活用して周到に戦争準備を進めていたプロイセン軍の前に、自信過剰だったフランス軍はあっけない大敗を喫した。

フランスに勝利したプロイセンはドイツ帝国へ発展し、1871年にドライゼ銃のボルトアクションを継承・発展させ、現代式銃器と同じ金属薬莢を使用するモーゼル1871ライフルを最初の陸軍制式小銃とすると、プロイセンの勃興を支えたドライゼ銃と紙製薬莢は30年に及んだその役割を終えた。

また、ドライゼ銃の紙製薬莢は金属薬莢が主流となるまでの間、最も実用的な一体型薬莢として世界的に普及し、これを使用する回転式拳銃やレバー式の閉鎖機構を付けた娯楽用途の銃[1]などが、模倣品や改造品を含めて多数製造された。

2009年04月30日

檀君神話への傾斜

これほど信奉された箕子朝鮮であったが、民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、中国人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国・北朝鮮ともに太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張。現在の歴史教科書にも記述されている。韓国・北朝鮮の両国において白頭山が特に尊ばれ、その聖地に対して中国が自国の領土として単独での世界遺産登録を目論むことに強く危機感を募らせるのは、このような理由による。
近年、中国社会科学院の中国辺疆史地研究センターを中心に「古朝鮮・高句麗・扶余・渤海は中国の地方政権であり、その歴史は中国史の一部」という“東北工程”の史観が唱えられ、近隣諸国から注目を集めている。もともと住民の大半が非漢民族である中国東北部において、ナショナリズムを高揚させるための国内政治目的と見られるが、「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」とか、また箕子朝鮮については「箕子の存在を殷代の甲骨文字と前秦の記録から確認することができ、(中国人である箕子が)朝鮮半島に最初の地方政権を建てた」と漢人創始を強調するなど、その主張の内容は決して穏やかではない。

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これに対して韓国文化財庁は、「韓民族の歴史が(満州などの)東北地域につながっているという事実とそれを主張する『縁故権』を払拭するために開始されたもの」と大きく反発。さらには、近々崩壊が囁かれる北朝鮮を中国へ吸収するための準備工作と見て警戒する動きもあり、この箕子朝鮮論は単に古代史解明のための論議に留まらない、きな臭い現代国際政治の側面を見せ始めている。

2009年04月15日

ポルトガルでの影響

半島戦争は同時代におけるポルトガルの衝撃的な幕開けを表していた。リオデジャネイロへの宮廷の移転は、その後独立することになるブラジルの国家建設の始まりであった。宮廷、政府、陸軍からなる15,000人以上の人々がポルトガル艦船に乗り亡命できたことは、ブラジルとってはおまけであり、ポルトガルにとっては見せかけの恩恵であった。なぜならば、それは独立へのエネルギーを解放したからである。 不在間の王に指名されたポルトガルの知事には、フランスの侵略とイギリスの占領が続くために、僅かに影響していた。戦争大臣のミゲル・ペレイラ・フォルハスの役割は独特なものであった。ウェリントンは大臣を「イベリア半島でただ一人のまともな政治家」と見ていた。ポルトガル軍の参謀と55,000人の常備軍、50,000人以上の国民防衛隊「ミリシアス」と様々な数の郷土防衛隊「オルデナンサス」を(全体で10万を越えると目される兵力)創設を指揮した。1812年にロシアの宮廷大臣であるシュタイン男爵に送った手紙で、フォルハスは「焦土作戦」の採用が、ナポレオンの侵略を打破し領土守る唯一の方法として薦めた。ロシアのツァーリアレクサンドル1世は、ウェリントンのポルトガル軍戦略を模倣しナポレオンの大陸軍を飢えさせるために戦闘を避けるよう命令した。

フランス帝国との戦争で試練に晒され、訓練され、実戦経験したポルトガル本土残留の新しい階級層は、新生ポルトガル独立を主張する点で、本戦争における旧来の指導者層に多大な影響を与え、フランス革命に並ぶものでもあった。ベレスフォード元帥は1814年以後もポルトガル陸軍(隷下に160人ほどの英軍将校が中核となる)の司令官(国王がまだブラジルにいるので一種の植民地総督)として残留した。彼の元、ポルトガルの新政策が策定された。これはルソ-ブラジル連合王国のあり方、アフリカの植民地における奴隷供給問題、ブラジルの産業、ポルトガルとの交易など今後の国家計画が定まった。しかし、1820年までにこれら全てが維破綻した。ポルトガルの半島戦争に参加した葡軍将校は、イギリス軍人を追放し、8月24日にオポルトで自由主義革命を開始した。ポルトガルにおける自由主義体制の樹立は1832年から34年の内戦終結後に結実されることとなる。

スペインでの影響 [編集]
新国王ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)は当初フランスとの協力関係で近代化と解放が得られると信じていた「アフランセサドス」(親フランス派)のスペイン人に歓迎された。一つの例が異端審問の廃止であった。しかし、聖職者と愛国者は人民を煽動し、実際にフランス軍が抑圧する事件(1808年マドリード)がおきると、侵略者に対して人民を団結させ勇気付けるまでに拡大することになった。スペインに残っていた者は、フランス軍に従ってフランスに脱出した。画家のフランシスコ・デ・ゴヤはこれらアフランセサドスの一人であり、戦争後に、告発されたり可能性として考えられるリンチを受けないようにフランスに亡命しなければならなかった。

独立支持派は伝統派と自由派双方にいた。戦争後、新国王フェルナンド7世(待望の人(後に「彷徨える国王」))が、各地の連合を纏め上げフランスに抵抗すべくカディスで召集した独立議会が行った社会的前進を無効としたために、カルリスタ戦争で激突することになった。絶対君主制を復活させ、自由主義を標榜する者を全員起訴して処刑し、最後の悪行は、愛娘のイサベル2世のために王位継承法を変えたことであり、従って旧法での王位継承者である王の弟ドン・カルロスの支持者との内戦の世紀が始まった。従って、スペイン人が起こした独立戦争は、実際は、外国の占領よりも、専政、飢餓、破滅、死の方を選択し、スペインは百年も後退したのである。しかし近代化に対するスペイン人の渇望は、やがてリエゴ革命等によって現実化されて行くのである。

自由主義議会は1812年3月19日制定の1812年スペイン憲法を可決した。それらは後に、王によって、破棄された。

一方、植民地だったスペイン領アメリカでは、クリオーリョが各地の市参事会にてフェルナンド王に対して忠誠を誓う連合組織を結成した。この自治の経験と、フランシスコ・デ・ミランダらによる独立への動きが元になって後に、自由主義者(リベラトルス)にスペイン領アメリカ植民地の独立を促すことになった。シモン・ボリーバルもその一人である。

フランス軍はカトリック教会の大量の財産を多く略奪した。教会と尼僧院は、馬小屋や兵営に使用され、スペインの文化遺産が深刻な打撃を受けることになる美術品は、フランスに送られた。加えて英葡軍がスペインの都市と農村を略奪した。戦争の影響は、スペインの経済を著しく低下させ、19世紀の停滞をもたらすことになる。

主な戦闘と包囲戦 [編集]
メディナデルリオセコの戦い(1808年7月14日) フランス軍がスペインで初めて大勝利を収めた。イベリア半島に保安隊を創設した。
バイレーンの戦い(1808年7月19日) デュポン将軍が総指揮を取るフランス軍23,000名が、ハエーン地方(アンダルシア)のバイレーンでカスタニョスが指揮する3万のスペイン兵に包囲された。5回出撃を試みて、フランス軍は降伏した。
ロリサの戦い(以前は英語でRoleiaと綴っていた。)(1808年8月17日) ウェルズリーが15000のイギリス軍とモンデゴ湾に上陸し、リスボンに向けて南進した。アンリ・デラボルド指揮のフランス軍は、補給を待ってウェルズリーの進軍を遅らそうとした。第29歩兵連隊による早まった攻撃は、成功しフランス軍撤退の原因になる総攻撃の命令をウェルズリーが下さざるを得なくなる。小競り合いだったが、イギリス軍の半島戦争での最初の戦闘であり、ヘンリー・シュラプネル大佐の球形の弾丸が初めて使われた。
ビメイロの戦い(1808年8月21日) ロリサの戦いの4日後、今度は17,000の英葡連合軍を構成するウェルズリー軍は、ジュノー将軍の部隊に攻撃された。この攻撃はフランス軍が2,000名の死傷者を出して撃退され、ジュノーはトレスベドラス近郊に撤退した。
ソモシエラの戦い(1808年11月30日) ナポレオンのマドリードに向けた戦闘で、ヤン・コジエトゥルスキ指揮のポーランド警備隊の勇敢な突撃で有名
メデリーンの戦い(1809年3月28日) 17,500名のフランス軍が、グレゴリオ・デ・ラ・クエスタ将軍指揮のスペインの大軍を敗走させた(千人につき1万人の死傷者)。
タラベラデラレイナの戦い(1809年7月27日-28日 55,000のウェルズリー英西軍が、マドリードの南西110km(70マイル)の町タラベラデラレイナでジョゼフ・ボナパルト王、ジュルダン元帥、ヴィクトル元帥のフランス軍46,000名と対峙した。実際はウェルズリー軍がクエスタ将軍の寄せ集めのスペイン兵が3,500名いるという不利な状況にもかかわらず、ウェルズリーは勝利を収めた。死傷者はイギリス軍が5,500名、スペイン兵が1,000名、フランス軍が7,200名であった。
オカナの戦い(1809年11月19日) スールト将軍指揮の約29,000名のフランス軍が5万のスペイン正規軍を撃破した。壊滅的な損害を被り、スペイン南部の多くが陥落した。
ブサコの戦い(1810年9月27日 26,000名のポルトガル軍と4,5000名のイギリス軍の連合軍は45,000名のメセーナ軍を破った。死傷者はポルトガルが626名、イギリスが626名(素晴らしい一致)、フランスが約4,500名であった。
トレスベドラス線防衛(1810年冬–1811年) 「ナポレオン衰退期」の1810年10月14日のソブラルの小競り合い以外はクローズウィッツの勝利はなかった。
フエンテスデオノロの戦い 1811年5月3日 – 5日
アルブエラの戦い(1811年5月16日) ウィリアム・ベレスフォード卿指揮の連合軍35000名は、スルト元帥がフランス軍24,000名と包囲を解こうとするのを妨害するためにバダホスから南に移動した。フランスの攻撃は、結局失敗した。全軍が勇敢に戦い、ジョアシム・ブレーク将軍の師団は、フランス軍を撃退し、イギリスの狙撃旅団は「頑強な抵抗者」のように栄光に輝いている。ポルトガルの第11師団第23旅団は、フランス軍との「戦闘の局面を変える」歩兵攻撃を導いた。
バダホスの戦い(1812年4月6日) フィリポン将軍指揮のフランス軍5,000名とのバダホスの頑丈に強化された要塞は、3月16日から3万のウェルズリー英葡軍に包囲されていた。4月6日夜、強襲を繰り返して、防衛線突破に成功し、フランス軍は降伏した。フランスが1500名、英葡連合軍が5,000名を失った。
サラマンカの戦い(アラピレスとも)(1812年7月22日) ポルトガルへの撤退中、ウェルズリーの英葡軍48,000名は、マルモン元帥指揮の5万のフランス軍にサラマンカ近郊で攻撃を受けた。イギリス軍はベルトラン・クローゼル将軍がフランスが有利な状況を保ったまま攻撃に踏み切って1時間未満でほぼ勝利を収めた。ウェリントンとベレスフォードは、ポルトガルの第3師団第15旅団とフランス軍の進路に向かって反撃を指揮した。スペイン軍が退路を断つのに失敗し、フランス全軍を捕らえることはできなかった。それでもフランス軍の損害は死傷者7,000名、捕虜となった者7000名以上であった。
ビトリアの戦い 1813年6月21日

人物 [編集]

スペイン人 [編集]

政治家 [編集]
マヌエル・デ・ゴドイ(1767年 - 1851年)(スペインの堕落した首相) 自分の陰謀と怠慢で1808年に事実上抵抗もなくフランス軍にスペインを支配させてしまった。スペイン王妃マリア・ルイーサの愛人であると言われる。王子フェルナンドすらゴドイとマリア・ルイーサの子であると噂された。
カルロス4世(1748年 - 1819年)(意志薄弱で無能な国王) ゴドイの言いなりで、1808年にナポレオンが退位させた。
フェルナンド7世(1784年 - 1833年)(スペイン皇太子) 1808年に即位したが、すぐにフランス軍により亡命を余儀なくされる。代わりにジョゼフ・ボナパルトが国王になったことで、半島戦争の始まりとなる5月2日の反乱を引き起こした。戦争末期に復位したが、10年間の混乱で19世紀の大半を経済的な混乱と無秩序に近い混沌状態にスペインを陥れた。

将兵 [編集]
ミゲル・デ・アラバ(1770年 - 1843年)(スペインの将軍) 只一人トラファルガーの海戦とワーテルローの戦いに参戦した
ホアキーン・ブラケ・イ・ホイエス(1759年 - 1827年) ナポレオンの第二次侵攻の際のガリシア軍司令官
フランシスコ・ハビエル・カスタニョス(1758年 - 1852年) バイレーンの戦いで勝利したスペインの有名な将軍。戦闘で初めて大陸軍部隊を負かした。
グレゴリオ・ガルシーア・デ・ラ・クエスタ(1741年 - 1811年) イギリス軍と大規模な合同作戦を行ったスペインの中心的な将軍だが、度々大損害を出した。
ペドロ・デ・ラ・ロマナ(1761年 - 1811年)(ガリシア軍の偽司令官) フランスからガリシアとアストゥリアスを解放した。
ホセ・オドネル(1769年 - 1834年)(スペインの将軍) カタルーニャの最高司令官
ホセ・デ・パラフォックス(1776年 - 1847年)(スペインの将軍) アラゴーン軍の艦隊長に選ばれ、1808年と1809年にサラゴサ防衛で叙勲される。
ホセ・デ・サン・マルティーン(1778年 - 1850年)(スペインとアルゼンチンの軍人、師団長) バイレーン、アルブエラ、トレスベドラスで戦う。1810年5月25日にブエノスアイレスで五月革命が勃発したことを聞くと、出身地のアルゼンチンに帰国し、戦後南米の解放者の一人になる。
ホセ・デ・サヤス(1772年 - 1827年) スペインで最も立派な司令官の一人
トマース・デ・スマラカーレギ(1788年 - 1835年)(スペインの将軍) バスク人。後年カルリスタ戦争で勇名を馳せる。

ゲリラの指導者と革命家 [編集]
アウグスティナ・デ・アラゴーンはサラゴサ包囲の際に活躍した女性
ルイース・ダオイース・デ・トレス(1767年 - 1808年)とペドロ・ベラルデ・イ・サンティリャーン(1779年 - 1808年) 1808年5月2日のマドリード暴動を指導した砲兵将校。死後国民的英雄となる。
フアン・マルティーン・ディーエス(1745年 - 1824年) El Empecinado(不屈の人)として知られる立派なゲリラ指導者
フランシスコ・エスポス・イ・ミナ(1781年 - 1836年)(ゲリラ指導者) 恐らくスペインの偉大なゲリラ指導の中で最高の戦略家で、フランスが支配する場所を誰にも咎められずに放浪できたことで有名。時折待ち伏せ攻撃で全フランス連隊を全滅させた。

その他 [編集]
フランシスコ・ゴヤ(1746年 – 1828年)(スペインの画家) 戦争中の虐殺を写実的に描いた。

フランス人 [編集]
ジョゼフ・ボナパルト(1768年 - 1844年) スペイン国王。ナポレオン・ボナパルトの兄。当初ナポリ王(1806年 - 1808年)で、ボルボーン(ブルボン)朝の意向によりスペイン国王(ホセ1世)になった(1808年 - 1813年)。スペインの旧体制改革と近代化を目指すも、独立戦争の現実の前に挫折した。
ジャン=バティスト・ジュールダン(1762年 - 1833年) フランスの元帥
ジャン=アンドシュ・ジュノー(1771年 - 1813年) フランスの将軍で外交官
オーギュスト・マルモン(1774年 - 1852年) フランスの元帥
アンドレ・マッセナ(1758年 - 1817年) フランスの元帥
ジョアシャン・ミュラ(1767年 - 1815年) ナポリ王。フランスの元帥。ナポレオンの義理の兄弟でベルク大公(1806年 - 1808年)に叙された。フランスのスペイン侵略の端緒を導いた。そして、ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン国王になるまでは、その地位を希望した。ジョゼフが国王だったナポリ王国を慰労の褒章として与えられた。
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト(1769年 - 1851年) フランスの元帥。スペインでの半島戦争で指揮権を保持した。ポルトガルに1809年に侵略し、ポルトガル国王への野心を募らせたが、ウェルズリーとシルヴェイラの連合軍によって退けられた。ワーテルローの戦いの参謀長であった。戦争大臣(1830年 - 40年)。

イギリス人 [編集]
アーサー・ウェルズリー(1769年 - 1852年) イングランド系アイルランド軍人で政治家。ウェルズリーは半島戦争の間、同盟軍の指揮で成功おさめ少将から陸軍元帥へと昇進し、後にウェリントンの貴族となり、さらにウェリントン子爵。1814年にはウェリントン公爵家を創設した。
ジョン・ムーア卿(1761年 - 1809年) ラコルニャの戦いで戦死するまで、シントラ協定により英国軍を指揮した少将
ウィリアム・ベレスフォード(1768年 - 1854年) ポルトガル陸軍の元帥に昇進し、有能で訓練された戦闘部隊を纏める任務を与えられたイギリス軍の将軍。ブサコの戦いで勲功爵になった。
ロワルドヒル卿(1772年 - 1842年) ウェルズリーが独自に指揮することを任せた数少ない将校の一人。多くの戦闘で重要な役割を果たして、1812年に中将に昇進した。
ロバート・クラウフード(1764年 - 1812年)はジョン・ムーアの下で旅団長として戦争を始め、少将に昇進して間もなくロドリゴ市を急襲した。
トーマス・ピクトン(1758年 - 1815年) 第3師団を指揮した少将で、ウェルズリーの最も有能な上級将校の一人。1813年に勲功爵になり中将に昇進した。ワーテルローの戦いで戦死した。

ポルトガル人 [編集]
ベルナディム・フレイレ フランス侵略軍に対するポルトガル人の暴動を指揮した将軍。ビメイロでウェリントンを補佐した。1809年3月27日に暴徒に暗殺された。
フランシスコ・ダ・シルベイラ 将軍で、1808年 - 1813年にポルトガル北部で民兵と軍の師団を指揮した。ビトリアとピリネウスの師団長
ミゲル・ペレイラ・フォルハス 将軍で戦争省長官。1806年からポルトガル軍の改革を推し進め、戦争を機能的に行えるよう手助けした。
マヌエル・デ・ブリト・モシノ 1809年以降で最も成功した副官長。5万人ほどで機能的に戦争を遂行できるようにフォルハスとベレスフォードを手助けした。
トマース・ギレルメ・ストゥッブス 半島戦争中に連隊長と旅団長を勤め、自分自身とサラマンカ、ビトリア、ペレネー山脈の第11師団第23旅団の名前を世間に知らしめた。
カルロス・フレデリコ・レコル 1808年にイングランドでレアルレヒアンルシタナを組織。ウェリントン軍第7師団長でイギリス軍で唯一の外国人
ルイース・ド・レゴ・バレト 大佐で、後に准将になり、イベリア半島の主な戦闘で戦い、「勇敢なルイース・レゴ」とウェリントンの特派軍で称えられた。
ジョアン・カルロス・サルダナ 24年間しか生きられなかったにもかかわらず、サルダナ大佐(後の元帥)は1814年にバイヨンヌの包囲を解いた英葡合同師団を暫定的に指揮した。

諜報活動 [編集]
諜報活動は1810年を過ぎるとイギリス軍の戦争遂行に大きな役割を果たした。スペインとポルトガルのゲリラは、フランス軍の密使から通信文を奪取するよう依頼された。1811年からこうした文書類は一部または全文が暗号化されていることがよくあった。ウェリントンの参謀ジョージ・スカヴェルは解読する任務を与えられた。初めは使用する暗号はかなり単純で他の参謀の助けをもらった。だが、 1812年の始めには、更に難しい暗号が、独創的に外交文書用に改訂され、使われるようになると、スカヴェルは解読を進めていくことに夢中になった。解読作業はフランス軍の動きと配置に関する知識が上記の交戦で大きな成果を収める結果と共に徐々に進んでいった。フランス軍は暗号が解読されているとは知らず、ビトリアの戦いでその暗号表が奪われるまで使い続けた。

文学などへの影響 [編集]
プロスペル・メリメの小説「カルメン」 - これを基にした ビゼーのオペラ「カルメン」はこの戦争中の設定である。

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